2:再生

勝ったほうが負けたほうになんでもひとつすきな命令ができる、という賭けに負けてしまった。
錆兎くんはテレビゲームのコントローラーを床に放り投げて、めずらしく、年相応な満面の笑みを浮かべて喜んでいた。
わたしは錆兎くんがそういうふうに笑ってくれたことがうれしかったし、ひどい命令をするようなひとじゃないということもわかっていたから、勝敗がついたあとも空っぽのグラスにジュースを注いであげたりして、のんきにゆるゆると笑っていた。
つい昨日のことだった。


「マネージャーか。なまえは得意そうだな、そういうの」
「どうかなあ。でも、なにかやりたいってずっと考えていたから、ちょうどいいと思ったの」
「おれも頻繁に助っ人をしているから、なまえが入ってくれるのはうれしい」

閉店間際のかまどベーカリーにはいつもほんのすこしのパンしか残っていないけれど、炭治郎くんが店番をしていることが多いから、わたしはあえてこの時間めがけてお店を訪ねることにしている。
炭治郎くんは、好青年を絵に描いたような、ひとつ下のおとこのこだ。
錆兎くんの応援のために剣道部の試合に行ったときに知り合ったのがはじまりで、今では三人で遊んだりもする仲である。
人当たりがよく、話もうまい。お客さんのなかには、わたしのように炭治郎くんに会いに来るひともすくなくない。

「錆兎はほんとうになまえがすきだな」

からからと入り口のベルが鳴って、わたしたちはふたりとも音のする先を振り返った。
見覚えのある青のジャージ。冨岡先生だ。
扉から吹き込む空気にパンの香ばしいにおいがふわふわと乗って、鼻腔をくすぐる。


冨岡先生は不思議なひとだった。
涼しげな瞳と低くてあまい声がすてきだけれど、いつも仏頂面で、生徒からはこわがられることが多い。
わたしは先生の纏う、澱のない澄んだ水のような空気が、とてもすきだった。
錆兎くんから剣道部のマネージャーになってほしいと言われたときにはびっくりしたけれど、突拍子もない願いを聞き入れたのは、体調を崩してしまった前任の先生の代わりに剣道部を見ることになった冨岡先生をすこしでも助けられたらと、そんな思いもあってのことだった。

先生はきっとすごくやさしいひとなのだけれど、きっとものすごく不器用で、その言動は、時折PTAで物議を醸すほど危うい。
わたしはそんな先生の、まっすぐなのかひねくれているのかよくわからない、奇妙に澄んだ言葉が、なぜだか無性にすきだった。

「冨岡先生、おつかれさまです。なにを買うんですか」
「和風スモークサーモンベーグル」
「ああ、それなら、わたしのが最後の一個だったんです。先生にあげます」
「いや、いい。自分で食え」
「わたし、さくらパンを買いにきたんです。これはついでだから、先生がもらってください」

先生はばつの悪そうな顔をして、そうか、と一言呟いた。
わたしが入部届を出したことにはなにも触れられなかった。
炭治郎くんと先生と三人で新作のパンの話と明日の天気の話をして、そしてまた明日ねとさようならをした。
さくらパンは先生がおごってくれた。
半透明のビニール袋のなかには、先生のトレイの上にあったラスクとマドレーヌがいっしょに入っていた。
慌ててお店に戻って説明をしたけれど、先生に言われたとおりに分けたから大丈夫だよ、と炭治郎くんはふんわりと笑った。


帰り道、仰いだ夜空に星が無数にまたたいているのが見えた。
いつもより澄み渡り、遠くまで見えているような気がした。
手元からふわりと上ってくるあまいかおりに胸が躍る。
今日はとてもいい日だと思った。