28:ホーム・スウィート・ホーム

「なまえ」
「義勇さん、おめでとうございます」
「寒かっただろ」

こんこんと降る雪とわたしの間に差し込まれたのは、黒いこうもり傘だった。
会えたうれしさにあふれた笑みが、白いもくもくになって夜に溶けていく。
雪あかりがあたりをばら色に染めるうつくしい夜は、今日という日にとてもふさわしい。
おとぎ話のようにやさしい夜。夢のようにうつくしい夜。
義勇さんが生まれた日の夜がやさしくて、わたしはとてもうれしかった。


あと二時間もすれば日付が変わってしまう。
こんな時間までおめでとうが言えなかったのは、意気地なしをこじらせていたからだ。
いっしょに過ごしたいと言うつもりはないけれど、声をきいたらわがままになってしまいそうで、なにをしているか聞きたくなって、いっしょにいるかもしれない誰かにやきもちを焼きたくなって、今日をけがしてしまいそうでこわかったのだ。

会わないかと言ってくれたのは義勇さんだった。
おめでとうと伝えられたらすぐに切るつもりだった電話は、わたしが最寄りの駅につくまで終わらなかった。
わたしたちはぽつぽつと言葉を繋いだ。
降り始めの雨のようにきまぐれに言葉を落としながら流れていく、ふたりの時間のこういう穏やかさが、わたしはだいすきだ。


傘を持たずに出てきたわたしを、義勇さんは歩いて駅まで迎えに来てくれた。
その腕にぴったりとくっついて、やわらかい雪を踏み固めながら歩く。
傘はわたしのほうに傾いでいて、義勇さんの左肩は無防備に雪空にさらされている。
細い路地には、足跡のないまっしろな雪が敷き詰められていた。
まるでシルクの絨毯のようなその道を進む一歩一歩に、わたしは願いを込めた。
義勇さんがしあわせでいられますように、やさしい世界になりますように、みんながいっしょにいられますように、ずっと、ずっと。


扉を開ける前、賑やかな声が内側から聞こえてきた。
わたしがばかみたいにひとり相撲をしているあいだ、義勇さんはひとりでさみしくしていたわけでもなかったらしい。
ほかにもひとがいるのだということを事前に伝えてくれないのがなんとも彼らしくて、思わず笑ってしまう。

義勇さんはたくさんの愛に囲まれて生きている。
それだけで、わたしは泣きたくなるほど、胸がいっぱいになってしまう。

「おう、派手な拾いもんだな」
「思いがけず落ちてた」
「ええ、そんな」
「おれたちを前座にしたな冨岡」

話しを聞くと、誕生日にひとりだという義勇さんを慰めるために男性教師陣が急きょ集まってくれたのだという。


宴は深夜まで続いた。
涙が出るほど笑って、騒いで、もみくちゃになって、しかし唐突に終わった。

シャワーからあがると、部屋のなかはもうキッチンの青白いあかりがついているだけで薄暗く、先ほどまでの賑やかさがまるで嘘のようにしんとしずまりかえっていた。
狐に化かされたような気持ちのなかで、残されたアルコールとスナック菓子と消えた蝋燭の混じったにおいが、みんなが確かにここにいたのだということを物語っている。


うすぼんやりとしたリビングのなかで空き缶を拾い上げる義勇さんの横顔は、いつか見た、ここをおいてどこかへ行きたそうな男性の顔とは違っていた。
変わることをおそれて動けずにいたわたしと、いつのまにか変わっていた義勇さんとのあいだに、もどかしい距離を感じる。

「みなさんは」
「帰った」

濡れた髪の毛の先から、ぱたた、と水滴が落ちる。
キッチンの蛇口から一滴の水が滴って音を立てる。
青白いひかりに照らされた義勇さんの顔は、いつもに増して凛と冷たく見えた。

急にこわくなってしまってリビングへと足を進めたわたしへ、義勇さんはそっと腕を伸ばしてくれる。
その腕に抱かれても、胸のうちのざわめきは止まらなかった。


今日がしあわせだった。今がしあわせなのだ、とても。
しかしながら、時はわたしたちを連れて流れていく。
いつまでもここにとどまってはいられない。
先生方と集まれるのは、これが最後だったかもしれない。
ふたりで会うのは、これが最後かもしれない。
卒業してしまえば、会うことすら叶わないかもしれない。
みんながいっしょにいられますようにとは祈ったけれど、みんなといっしょにいられますようにと願えなかったのは、叶わないのがこわかったからだ。
そんな自分勝手な理由で神さまを恨んだりはしたくなかったからだ。


「こわいのか」

「こわいです、今がこれまでの人生のなかで、いちばんしあわせだから」

「こわかった。おれも。周りのこと、お前のこと、自分のこと、なにをいちばんに優先して、なにを守って、なにを変えるべきか」


義勇さんとなんとなく触れあえて、学校に行けばだいすきな友人に会えて、約束を交わすのもたやすい。
そんな日常は、わたしが手をくださなくとも、あとすこしで失われてしまう。


「変わることがこわいです。でも、変わらないこともおそろしいです。言わなければ伝わらない思いがあります。でも、言ってしまえば様々なものが変わってしまう。もしかしたら今日のようなしあわせな日は、わたしの人生においてもう訪れないかもしれない。全部、なくしてしまうかもしれない」

「信じてほしい」

「義勇さん……」

「なにが正しいのかもわからなければ、しあわせになれるという保証もできない。おれたちを取り巻くものがどう変わるのかもわからない。それでも共に生きてくれるなら」


両肩を押し返されて、わたしたちは見つめあう。
義勇さんはいつもと同じしずかな面持ちだった。
どのくらいのあいだ見つめあっていたのかはわからない。
きっとほんの一瞬だったのだと思う。しかし、わたしにはとてつもなく長い時が流れたように感じられた。
卒業までのあとひと月が、数回のまばたきの間に消えてしまったようだった。


「生涯、お前を愛しぬくと誓う」

「ずっとですか」

「ずっと」

「だいすき、義勇さん」

「知ってる」

「だいすき」

「おれも。遅くなってすまない」


明日が今日よりもふしあわせだったらどうしよう。
今日までのようなしあわせがもう訪れないとしたらどうしよう。
義勇さんのやさしい誓いとキスは、わたしのそんな不安をすべてとろとろに溶かしてくれた。
わたしたちは答え合わせをするようにかたく抱きあいながら、幾度となくくちびるをあわせた。
義勇さんとのキスは、あまくて、とろけるようにあたたかくて、せつなくて、そしてどこか懐かしかった。

ひとのこころは移ろうものだ。
それでも義勇さんの変わらない愛を、こんなにも深く信じられるのはなぜだろう。

ほとんど暗闇のうすぼんやりとした部屋のなかでわたしは、義勇さんの輪郭や存在や愛を確かめるように、何度も、何度も、その身体に触れた。
こうして触れあえることを、わたしはきっと、ずっと待っていたのだ。
それは、期待とはもっと違うもので、たとえば生まれるよりもずっと前から知っているものの返還や帰還を待ちわびているような、そんな感覚に近かった。

すきだとしずかに伝えてくれた義勇さんは、ほんのすこし、泣き出しそうにも見えた。

たとえばおかえりと言いたいような、ただいまと言いたいような、泣きたくなるほどの安堵の気持ちで、わたしの胸はぎゅうぎゅうだった。