30:時を越える夢

"雪解けに濡れた路も乾き、桜のつぼみがあたたかなそよ風に揺れる、今日このごろ。
わたしたちは、このよき日に、この学園を卒業します。

この六年間、楽しいことばかりではありませんでした。
ときに訪れる、辛く苦しいときを乗り越えられたのは、たいせつな仲間、そして、やさしく、ときに厳しくご指導してくださった先生方のおかげです。

この町は、すてきな人々、すてきな出来事で溢れています。
この町は、すばらしいところです。"



卒業式のリハーサルは粛々と進められた。
人生の三分の一をも占める六年という年月は、こどもたちにとって、どんな色の記憶になるだろう。
懐かしんだときにかがやける宝石のひとつになるだろうか。

なまえの声はスピーカーを通してもなお、やわらかく響いた。
貧血を起こした生徒会長のかわりに、リハーサルのあいだのみ壇上へ上がることになったのだ。
時折目があうとちいさくほほえんでくれた。
奇妙なスピーチは歌うようになめらかに紡がれた。
彼女の人生に一度しかない高校生活を見送れることを、おれは無性に誇らしく思った。
彼女が深々と頭を下げる。
花の枝が風にそよぐように、スカートの裾が揺れた。



「先生、ジャージ着て。しろいのがいいです」

カーテンの閉じたままのほの暗い寝室で、なまえはいたずらっぽくほほえんだ。
卒業祝いのパーティまではまだ二時間ほどある。着替えも兼ねて一度帰宅したのだ。
彼女はおれがシャツのボタンをはずす様子をベッドに腰かけてじっと見つめていたが、Tシャツを被ると立ち上がり、ジャージに袖を通すと、背伸びをしておれのくちびるを食んだ。
深くあわせなおして無防備に開かれたくちびるのあいだに舌を割り入れると、彼女は喉の奥からあまくくぐもった声を漏らして肩を震わせる。
襟元を強く引っ張られて、ベッドへなだれ込む。
着替えの済んでいないツータックのスラックスが、高い衣擦れの音を立てた。
制服のネクタイを外し、やわらかなふくらみを手のひらで包むと、彼女の瞳がきらりと潤んだ。

「誘ったくせに、こわいのか」
「ちがうの、うれしくて」

彼女はよく泣く。
うれしくてもかなしくても、惜しげなく。
おれのこころのまんなかをいつも見つめている彼女は、感情表現というものがとりわけ不得手なおれの、やりどころのわからない感情をも透き通る雫に変えて、その瞳を介して流しているようだった。


「ねえ義勇さん。わたしが生まれてきたのは義勇さんに会うためだって言ったら、笑う?」
「……いや、信じるよ」
「わたしね、義勇さんと……ううん、あいしてます。遅くなってごめんなさい」


遠いむかし。
あれは今からどのくらい前のことなのだろう。
おれの隣にはいつも彼女がいて、共にいた長いようで短い年月のなかのとある日に、来世も共に生きようと約束を交わした。
すべてを鮮明に覚えているわけではない。けれども、こころの奥底を朧げに漂う記憶のそのほとんどで、彼女はしあわせそうにほほえんでいた。

彼女はなにか思い出したのだろうか。
それとも、ただのロマンチシズムからでた言葉なのだろうか。
確かめるのは野暮な気がした。

「次はいつ会えますか」
「帰らなければいい。ずっと」

おれの指先が、彼女に沈んで馴染んでいく。
彼女の肌はおれの肌に驚くほど馴染んで、このままひとつになれそうな気すらした。
やさしいキスをいくつも交わしながら、高まる熱を分けあうように、持ち寄った記憶を渡しあうように、おれたちは身体のあちこちを絡めた。

運命を信じる。
しかし、導かれたのではない。
今のおれが、今を生きるおれが、手繰り寄せたのだ。



"この町には、鬼退治にまつわる伝説が残されています。
それはきっと、この町の未来のため、たいせつなひとのため、自らを犠牲にして困難に立ち向かった人々の勇姿が、語り継がれるうちにかたちを変えたものなのだと、わたしは考えます。
むかしの人々の勇敢なこころは、今もわたしたちのこころのなかに生き続けているのです。

もしも前世があったなら、わたしはきっと、武闘の才には長けていなかったと思います。
それでも、去る時代には、戦いに出向くひとたちに寄り添い、その支えとなった人々も多くいるはずなのです。
わたしは、そんな存在であったのだと信じたい。
そして、今の時代でもそうありたいと願うのです。
いつか遠い過去になる今、たいせつな人々をそっと支える存在でありたい。
思い返されるときに主役でなくともよい。
ただ、確かに過去になる今をかがやかせる存在のひとつでありたい、そう思うのです。"


彼女の即興のスピーチは、あの場にいた人々のこころにどう響いたのだろう。
きっとそよ吹く風に乗る花びらのように、記憶の果てをそっと彩ったに違いない。
かつて鬼に立ち向かった者たち、せつなさの果てにいのちを落とした者たち、寄り添い生きた者たちのこころを。