6:花を編むひと

ひとりきりの図書館に、ころん、と鈍いベルの音が響いた。
みょうじだった。
目が合うとちいさく笑って控えめに手を振ってくる。
そのまま入り口近くの角を曲がって見えなくなり、数分後に後ろから現れて隣の椅子をひいた。

「冨岡先生、おつかれさまです」

彼女が腰を掛けると、花のようなこっくりとあまいかおりがふわりと立ちのぼってくる。
スカートの皺を直しながら彼女は言葉を紡いだ。
やわらかく弧を描くくちびるは赤く濡れていて、伏せられたまつげは黒々とかがやいている。

女子特有の、なにもかもが自分たちとは違う、触れれば壊れてしまいそうな危うさが苦手だ。
不用意に傷つけてしまいそうで距離を置きたくなる。
彼女はそんなおれのこころ構えを杞憂だとでも言うように、やわらかく笑うやつだった。

「剣道の本ですか」
「卒業したきり、長いこと離れていたからな」
「先生が読み終わったら、わたしも読んでみます」

彼女はそれ以降しばらく言葉を発さなかった。
ちいさな微笑みを浮かべながら、持って来た本をしずかに読み進めている。

そこそこに広い図書館にはおれたちの他に誰もいなくて、卓上には携帯電話がふたつ、触られないまま並んで置かれているだけだった。
広いテーブルは窓に近い右半分が陽にあたっていて、おれたちは日陰側の中心あたりに並んで腰を掛けていた。
グラウンドではしゃぐ生徒の声や、金属バッドがボールを打ち返す爽快な音が遠くに、時計の秒針の音とそれぞれにページをめくる音だけが鮮明に聞こえた。


こういうふうにふたりでいるとき、放っておいても、彼女はいつも楽しげにしている。
カーラジオを聴いたり本を読んだり、空を見たり写真を撮ったりしながら、誰に向けてでもなくゆるく笑う、彼女のそういうところが、おれはすこし気に入っていた。

「楽しいか」

彼女が熱心に目を通しているのは百人一首の本だった。
花の女子高生が読むにはすこし渋いと思った。
彼女はうれしそうに目を細めながら頷く。

「千年も前の言葉が、今も誰かのこころを震わせるんです。すごいことだと思います」

ほら、と彼女は卓上に本を置き、開いたページの上に人差し指を当てて、するすると文字をなぞる。
ぐっと距離が近くなって、肩が触れ合う。
彼女の手の影になり肝心の文章はなにも読めなかったけれど、野暮なことも言いたくなくて、おれはいっしょになって首を傾ぎ、そのちいさな本を覗き込んだ。
古い紙と印刷インキの嗅ぎ慣れたにおいに、彼女のかおりが混ざって馴染んでいく。


「愛されたまま死にたい。いつ死んでもいいと思っていたけれど、あなたを知ってからはいつまでも共に生きていたいと思う。恋忍ぶことに耐えられなくなるくらいなら、一層のことこのまま消えてしまいたい。昔のひとも、今と変わらない気持ちでひとを愛したんですね。ラブレターが後世まで残るなんてすてきです」


おれは大学受験の合格時に錆兎と炭治郎からもらった手紙のことや、就職が決まったときに寄越されたメールの文面を思い出していた。
自分のことを考えて綴ってくれた言葉が後世まで残されて、いつかの時代で自分たちの子孫やその子孫のたいせつな者たちのこころを豊かにすることがあれば、それはとてもすばらしいことだと思った。


「藤原定家は友人に頼まれて百人一首を作ったけれど、他のひとたちはどんな思いで歌集を編んだんだろう。日本中にある、ありったけの愛やかがやきを集めて、たいせつなひとを喜ばせようと思ったのかな」

「今の身近なもので言うと、アルバムが近いか」

「アルバム」


彼女は慈しむように細めていた目を爛々とかがやかせて、声を弾ませた。
そろそろチャイムが鳴るくらいの、いい時間だった。
貸し出しカードに記名をするのは面倒だったから、本はそのまま棚に戻すことにした。

立ち上がると彼女のかたちのいい頭が丁度いいところにあった。
なんとなしにぽんと触れると、彼女は応えるようにゆるく笑う。
頬がすこし上気していた。
カウンター横に飾られた贈答品のブーゲンビリアがよく似合っていた。