7:こなたへ辿り着く

学校からほど遠くない場所にある神社を、地元の人々は、鬼ヶ島神社と呼ぶ。
毎年六月に催される祭りはこの町いちばんのイベントで、そこそこ広い境内には沢山の露店が立ち並び、町中の老若男女が訪れる。
この時期になれば生徒たちの話題は祭りのことでもちきりで、彼女、みょうじもまた例には漏れず、どんな髪型にしようか、どの浴衣を着ようかなどと話しては楽しげに笑っていた。


「この町には昔、人食い鬼がいて、人里に下りてきては悪さをするものだから、困り果てたお殿さまは、有志で鬼退治をしてくれる人々を募ったんです。戦いが収束するまでに散ったたくさんの戦士の御霊を神さまとして祀っている神社だから、桃太郎になぞらえて、鬼ヶ島神社って呼ばれているらしいですよ」


昨晩、錆兎と炭治郎と共に家に来たみょうじを送る車内で、彼女はそう語った。
なんでもない、ただの世間話だった。
その話題がどういうふうに始まり、終わったのかも覚えていなかったし、祭りには無論、毛頭興味はなかったけれど、今朝ポストへ投函されていた町内会のちらしのなかに灯篭流しの文字を見つけて、川辺のほうをすこしだけ覗いてみる気になったのだ。
自分にしては随分めずらしい判断だった。


境内に続く広い道は、ちいさな町の一体どこから湧いてきたのかと驚くほどに、多くの色めき立った人々で溢れていた。
あちらに行くもこちらに来るも関係なく、肩をぶつけあいながら、皆各々にすきな方向へと歩いていく。
薄明の空は提灯の橙色のひかりと混ざって深い藤色をしていて、浴衣の人々でごった返す往来は、水彩絵の具をランダムに塗ったように色づいていた。

風がすこしひんやりとしてきた。
場違いなくたびれた黒いジャージのファスナーを上まで閉めて、でたらめな人並みを縫うようにして河原のほうを目指す。

川は裏の森から境内の脇を通り、町を分断するように流れ、遠くの海まで続いている。
露店が立ち並ぶ参道からは離れたところにあるため、十数分も歩けば空いた通りへ出られた。
無数の提灯は人々を露店通りに導くように飾られていて、灯籠流しの行われる河原に向かう小道にはちいさなA型看板がひとつ置いてあるだけであった。


木が石畳を打つ、乾いた足音が聞こえる。
ぱたぱたとこちらへ駆けてくるようなその音に振り向けば、頬を桃色に上気させたみょうじと目があった。
立ち止まった彼女の顔のそばで、赤いつまみ細工がゆらゆら揺れた。

「やっぱり、冨岡先生だった」

そう言うと、彼女はうれしそうに小首を傾いでほほえんだ。すこしだけ呼吸が乱れている。
抱えているのはトレイに乗った四角い灯籠だった。

「ひとりか」
「灯籠流しが見たくて抜けてきたんです。錆兎くんたちは露店のほうに」

縹色の生地に椿の模様がよく映えたレトロな浴衣に、鬱金色の半巾帯と、そこに重ねて締められたうぐいす色の兵児帯がよく似合っていた。
和服を着ると女性は大抵おとなびて見えるもので、彼女もまた、普段よりはおとならしく見えた。
きっちりと結い上げられた髪の毛には、浴衣と揃いの大ぶりの椿の飾りがついたかんざしが挿さっている。

「先生の分も灯籠をもらいましょう」

彼女が指をさした先のイベントテントでは、町内会のボランティア役員と思われる中年の女性たちが、数百円を受け取っては灯籠を手渡している。
ひとりなのかと聞き返さないのが、彼女らしいと思った。


桟橋への列には、熟年夫婦やこども連ればかりで、学生なんかはほとんどいなかった。
彼女は人々が流すあかりの数々を、慈しむようなやさしいまなざしで見つめていた。
手元のあかりが彼女の瞳に映りこんでゆらゆらと揺れる。

「お願いごと、書けました。先生は」
「思い浮かばないな。お前に任せる」
「なんでもいいの?」
「なんでもいい」
「じゃあ、わたしが書くから、先生は見ないまま流してください」

彼女はすこし悩んでから、おれの持つ灯籠の正面部分にさらさらとサインペンを滑らせた。
まもなく順番がきて、そこになにが書かれていたのかはわからないまま、おれたちの灯籠はゆらゆら水面を滑り、無数のあかりのなかに紛れて見えなくなった。


おれたちは河川敷にしゃがみ込み、しばらくの間、やさしい橙色のあかりが揺蕩う水面を眺めていた。
黒い水面に白くかがやく波紋が幾重にもなって広がり、その上を、鬼灯のようなひかりの数々がゆっくりと滑っていく。
灯篭のあかりは遠くへ行くとひとつひとつの輪郭が不確かになり、ほろりと淡くかがやく塊になって、やがて見えなくなった。
溶けたひかりで白む地平線はうつくしかった。
たくさんの魂が浄化され、どこか清らかなところへ帰っていくようだった。

「死者の魂への弔いになる」
「鬼の正体は、悪魔に魂を売ってしまった、こころの弱い人間だったと聞きます」
「祈ろう。その時代に生きた人々が、次は平和な世で、健やかに生きられるよう」
「はい」

夜の川辺は肌寒かった。
上着でもかけてやりたい気分だったが、あいにく、色気のないくたびれたジャージしかなかった。
しゃがんだまま半歩ほど近づけば、彼女もそっと身体をおれのほうへと傾けた。
ぎりぎりどこも触れあわないくらいの距離であったが、ひとが近くにいると違うもので、彼女の座る左側だけがほんのりとあたたかかった。

「なんだかせつない」

彼女がぽつりと呟く。
揺らめくあかりを見つめる瞳がすこし濡れていた。
かける言葉が見当たらなくて、せめて同じほうを見つめてみようと、彼女の視線の先をいっしょになって追ってみる。

自分は周りの人間たちのような聴き上手とは、ほど遠い。
その上口も立たないものだから、ひとと会話をするのは、大概苦痛である。
それでも、彼女の話を聴くことはきらいじゃなかった。
彼女の瞳を通せば、世界はきっと、もっと違うように見えるのだと思う。
背伸びをする純真なこどものような、こどものこころを忘れていないおとなのような、磨かれ過ぎていない素朴なやさしさのなかにひかる魂は、普段彼女に、どんなうつくしい世界を見せているのだろう。
彼女の話を聴くと、自分のつまらないこころまで豊かになったような、そんな心持ちになるのだ。


「お願いごと、書かなくてよかったんですか」
「おれが捻りだしたつまらないことより、誰かの大事な願いがふたつ叶うほうがいい」
「わたし、先生のほうへは、冨岡先生の願いが叶いますようにって書いたの。先生、自分のためにはなにも祈らなさそうだったから」

露店の並ぶ参道へ向かう途中、彼女はそんなことを言った。
それから間もなく、錆兎たちと、なぜかそこにいた宇髄たちと合流して、彼女自身の願いは聞きそびれてしまった。
ひとにはそんなことを言うくせに、彼女の願いだってきっと、真に彼女のためのものではないような気がした。

最後に皆でずらりと横並びになり、青いビニールシートで囲われた特設の賽銭スペースに、適当な小銭を投げ入れて、手を合わせた。
結局自分のための願いごとなんてものはすぐには思いつかなくて、錆兎と炭治郎と姉さんが健康で暮らせるようにということと、彼女の、彼女のための願いが叶うようにと、そんなことを祈った。