11:持ちきれない祈りを

彼女と過ごした数日間を、幾月か経った今でもふと思い出す。
春のうららかな陽射しのような、ふくよかな花のような、ふうわりとしたやさしさを携えた少女だった。
頼りなさげに笑うのに、稀にぱっと明るく、花が咲いたような笑顔を見せてくれる。
彼女からはいつも、ミルクのような砂糖のような、白粉のような、少女ともおとなともつかない蠱惑的なあまいかおりがしていた。

はじめて瞳を覗いたときから脆くてやさしい人間であると気がついてはいたが、鬼殺の道を歩もうとする彼女を止めようとは思わなかった。
危ういとは思っていた。
だが、一度手を差し伸べてしまえばこの手で守りきる義務が生じてしまう。
近しいひとを錆兎と姉さんのようにはしたくはない。しかし責任を持って守りきれる自信もなければ、万が一死なせてしまったときに苦しまない自信もなかった。
そうとなれば、ただ水が流れるように、何もかもをなりゆきに任せるより他にないと思った。それが悔しいのなら、強くなるしかないのだと。
ただひたすらに強くなるのだ。すべてはそれからだ。
欲しがるのも与えるのも許し許されるのも、すべて。


「あら冨岡さん、随分早いですね。すみません、今日は些か忙しくて……。申し訳ないのですが、約束の時間まで待っていてください」

規模の大きい戦闘でもあったのだろうか、看護師たちは皆ぱたぱたと忙しなく走り回っている。

胡蝶からの依頼により、鬼の根城にある薬品や体液が確認できそうな残留物はその都度蝶屋敷へ提出し、その折に簡単な検診を受けることになっている。
先日の任務で回収したものを持ってきただけだから別日でも構わないと伝えたかったが、口を挟む間もないくらいにぴりぴりしているものだから、黙って頷くことにした。
ちゃきちゃきの江戸っ子といったような女性ばかりの蝶屋敷は、正直いつも居心地が悪い。

「ああ、なまえが倒れてしまって。右の奥の病室です。冨岡さんに会いたがっていましたよ。そろそろ起きるころでしょうから」

胡蝶はそう言って意味ありげに含み笑いをすると、おれの返事を待つこともなく颯爽と去っていった。
女子には女子の秘めやかな情報網がある。
蜘蛛の巣のように常に張り巡らされているということだけはわかるのに、おれたちにはどうにも潜り抜けることができない。
そして訳もわからずなにもかもを掌握されてしまうのだ。

どうにも煮え切らないひっかかりを抱えたまま、胡蝶の指した病室へと向かう。
なまえは日の当たる部屋の寝台で、眠るように横たわっていた。
傍らでは神崎がちいさな膝の上で手ぬぐいを畳んでいる。

「冨岡さん」
「なまえは」
「大事ないです。不死川さんの手当をしていたんですが、かなり抵抗されてしまったみたいで。呼吸も落ち着いていますし、もう少しで目覚めるかと」
「そうか」
「おかけください。わたしは備品の補充をしてきますので」

そう言い残すと神崎は、几帳面に畳んだ手ぬぐいの山と包装されたガーゼを抱えて足早に去っていった。
木漏れ日がなまえの白い肌を照らす。
彼女の輪郭のやわらかな曲線を、開け放された窓から吹き込んでくるぬるい風が撫でる。
窓掛けが膨らむようになびいて、金具がからからと音を立てる。

彼女の力は諸刃の剣だ。
自らの精神を糸のように解き、対象の脳や神経の回路に潜りこませて細工を行う。
そのために、対象の抵抗や雑念が雪崩のように押し寄せてきてしまえば己の糸をねじ切られてしまうこともあるのだ。
明確な殺意やあからさまな闘志でなければ今回のように一時的な意識の混濁で済むが、実戦でしくじった場合、一生目を覚まさないことだってじゅうぶんにあり得るだろう。
自己犠牲精神の強い彼女とは最も相性の悪い能力であるといえる。ひどい皮肉だ。


椅子に腰を下ろして、彼女の前髪を直してやる。
布団から出ていた指先にそっと触れると、やわく握りかえされてしまった。
片手を塞がれてしまったこの不自由さに、得も言われぬくすぐったさを感じてしまう。

片手を取られたままもう片方の手で手帳を読み返していると、指を握る力がふいに、きゅ、と強くなった。
彼女はすこし身じろいだあと、重たそうにまぶたを開ける。

「気がついたか」
「……義勇さん、すみません、わたし」

ゆっくりと起き上がった彼女の髪の毛を吹きつけた風が乱す。
頬にかかった髪を耳にかけ直してやると、くすぐったそうに目を細めた。
そのまますこしぼうっとしていたが、やがて骨がなくなってしまったかのようにくにゃりと力をなくしてしまい、抱きとめるようなかたちになる。
腕のなかでわずかに肩を上下させるあたたかくちいさな熱。
信頼を裏付けするような重みと立ち上ってくるあまいにおい。
傷ついた小鳥を抱いているような気分だった。

「あまり動くな」
「……義勇さんを感じると、わたし、いつもすごく、落ち着くんです」

消え入りそうな声でそう呟くと、なまえはすり寄るように身じろいだ。
この熱を、手放したくないと思ってしまう。
彼女がいると、こころに花が咲いたような豊かな気持ちになる。
その一輪を、寒さや嵐から守ってやりたいと、そう思うのだ。
ただ、思うだけ。
軒先の猫を拾うような気持ちで手をかけてはならないことはわかっている。
守りきれるほど強くならなくては。

「お手紙をたくさん書いたのに。お読みになりましたか」
「読みはしたが、書くことがない」
「いじわるです」
「もう休め」

見計らったように、扉を開ける音が響く。

もしも誰かと共に生きることになるのなら、それは、前を向いて生きていかなければならないということ。
即ち、かけがえのないひとたちの死に背を向けて歩かなければいけないということなのだ。
そんなことが、いとしい日々を過去にできるときが、いつか来るのだろうか。錆兎、姉さん。