14:重ねれば色もわからじ

「ようし、目を開けてください。右を向いて、左を向いて。うん、すてきです」

おれの顎に両方の手のひらを添えて、すき勝手に角度を変えてから、彼女は満足気にうなずいた。
うっすらと開く花びらのような濡れたくちびるが、ゆるやかに弧を描く。
顔に塗りたくられた化粧品のにおいと彼女のまとう花のようなかおりとが混ざって部屋じゅうを満たしていく。
立ち込めるなまめかしい女性のかおりに妙な居心地の悪さを感じて、ちいさく舌打ちをした。

彼女はおれの顔の傷を隠すために、おれたちの滞在先まで毎朝毎朝せっせとやってくる。
自信なさげで、それでもいつもにこにこと笑顔を絶やさない、変わったやつだった。


一度蝶屋敷で会ったことがある。最悪な出会いだった。
負傷したおれを眠らせるためにやってきた彼女に抵抗し、意識をへし折ってしまったのだ。
悪意はなかったし、単純に言えば混乱しただけだった。
身体の自由が効かなくなって、体内にあたたかな蜜のようなものがとろとろと流れ込んでくるようだった。
痛みも苦しみも、そのほかのすべてをもほどかれていくような感覚の、そのあまりの心地よさに、むしろ恐怖を覚えたのだ。
ぐずぐずに溶かされて、死んでしまうかと思った。
もしくは、この恍惚としたあまい感覚を二度と忘れられなくなってしまいそうで、どちらにせよおそろしかった。


「いつかのことは、悪かった」
「いいえ、わたしが未熟だったから。いきなり倒れるんだもの、びっくりしましたよね」

そう言って、彼女はまたふにゃりと骨のなさそうな、頼りない笑みを浮かべた。
いつもこれだ。
彼女はいつも、感情を選ぶ余地がないみたいに曖昧な笑顔ばかり浮かべている。
かなしそうなときも、つらそうなときも、ふにゃふにゃ笑う。
この顔しかできないみたいに、ずっと。
ばかみたいなその笑顔はひとりでいるときの凛とした面持ちとは似つかないし、冨岡といるときの彼女はもっといろんな顔をしているのだから、無理をさせたり笑顔を強制しているみたいで癪だった。

「お前、冨岡のことすきなんだろ」
「すきですよ。冨岡さんも、不死川さんも、煉獄さんも、みんな」
「……そーかよ」

彼女はこちらに背を向けて持ってきた化粧道具を鞄にしまっていたが、見えなくとも今どんな顔をしているのは簡単に想像がついた。
すべてをいなしてしまおうと、曖昧な笑みを浮かべているに違いない。
そう思うとこの時間がとたんに退屈に感じて、彼女が早くここを去ればいいのにと思った。
どうして嘘をつくみたいに生きるのか。
折れそうなほどに腰を締め上げる窮屈そうなドレスは、なにもかもを押し込めるようにして生きる彼女にとって皮肉のようにも思えた。

「つまんねぇ意地だなァ。明日生きてるかもわかんねぇのに」

彼女がはっと息を飲んで振り向く。
まあるく開かれた瞳がかすかに揺れていた。
おおきな窓から差し込むひかりを拾ってきらりとかがやき、泣いているみたいに見えた。

「前線で戦っているひとたちに迷惑や負担をかけたくないんです。わたしは逃げ出した人間だから、せめてそこだけは守りたい。そう思うのはわたしの意地ですが、迷惑をかけることより愚かとは思いません」

「そんなの手前の自己満足だろ」

彼女とのやり取りのさなかに、おれはなぜだか、遠い日を思い出していた。
いとしい、ちいさないのちたちと過ごした日々。
おれは、妹たちや弟たちがしあわせに生きていってくれるなら、それ以上にうれしいことはない。
剣なんか握らずに、血のにおいのしないところでしあわせにやっていってくれるなら、代わりにどんなつらい思いをしたって構わない。
逆におれのしあわせがあいつらのしあわせの妨げになるというのならそんなものは喜んで差しだすし、おれがしあわせにならないことがあいつらのしあわせを呼ぶというのなら、今すぐ地獄に落ちたっていい。

おれたちにとって、自分個人のしあわせなんて二の次だ。
しあわせの尊さもありがたみも痛いほどわかった。わかったから、たいせつなひとには、なにがなんでもしあわせになってほしい。しあわせでいてほしいと思う。
おれたちの生きる鬼殺の世界なんかからは、遠く離れたところで、どうか、と。
会えなくても、交わらなくても、その平穏を守ることができるならば、それがおれのしあわせだ。

彼女にとってはきっと、不幸に身を置くことは願掛けのようなもので、祈るみたいにせつなさへ身を投じることで、誰かたいせつな者たちのしあわせを引き寄せようとしているのだと思う。
弱い彼女には戦いで功績を上げることは難しい。
優秀な隊士に比べて差し出せるものが圧倒的にすくない彼女は、自らのしあわせを担保にしているのだ。
きっと。
彼女も自分とそう変わらないのかと思うと煩わしい笑顔もどこか身近に感じられた。そしてすこし、気の毒にも思えた。


「おれたちは誰も、自分たちのことを偉いなんて思っちゃいねェよ。明日会えなくなるかもしれないってのに聞きこぼした言葉があるほうが、よっぽど困る」
「聞きこぼした、言葉」

噛みしめるようにそう言うと、彼女はぽろぽろとしずかに涙をこぼした。

「生きていくことは、つらく、難しいです」

「そんなこたねェよ。ごちゃごちゃ考えないで息してりゃいいんだ」

「だって、誰もそんな生き方、していないもの」

「組織のなかにいるからだろ。人間にはそれぞれ役割っつうもんがあるんだよ。戦わなきゃならねェやつもいれば、笑ってるだけでじゅうぶんなやつもいる。家で待ってんのが役目のやつもいる。それぞれが役割を果たすことで、結果的にちょうどよく調和が取れるようになってんだ。とにかく、そういうもんなんだよ」

こいつは戦闘には向いてない。
鬼なんて殺さないほうがいいし、鬼を殺すところなんて見ないほうがいい。
こいつの大事なやつが、家で笑ってて欲しいっていうのなら、そういう存在ができたなら、そうしていたほうがよっぽどためになる。
あったかく出迎えて怪我の手当でもしてくれりゃ、無理して自分を殺して傷ついてやっとの思いで数体の鬼を斬ったりなんかするよりも、ずっとずっと、ありがたいことだと思う。

「な、泣くなよなァ」
「やさしくされると、だめなんです」
「やさしくしたつもりはねェ。向いてないって言ってんだよ。さっさとやめちまいなァ」

突き放すようにそう言うと、彼女は泣きながら、眉尻を下げて笑った。
いつもと同じようで、すこし違った面持ちだった。
こんな危なっかしいやつ、早くやめちまえばいい。
剣なんか放り出して、ケツも拭かずに逃げ去ればいい。
そうして、能天気に笑って過ごして、いつか誰かの嫁になればいい。
弟も、こんな嫁を貰えばいい。


死んでしまった家族たちの、生き別れた弟との、きっとたくさんある聞きこぼした透明の言葉の数々に思いを馳せる。
彼女はいつかその気持ちを告げることができるだろうか。
生きたいように、生きれるだろうか。
なんとなく他人事じゃないような気がして、屋敷へ戻っていく彼女の背中を見つめていた。