15:ひみつ箱はひみつのままに

腕のなかでなまえがくぐもった声を上げる。
力がすこしも入らないという様子で、抱き上げても首が座らない。
しっかりと支えていないと水のようにすり抜けていってしまいそうだった。

「ぎゆうさん、すみません……」
「いや、よくやった。早くに助けてやれなくてすまない」

政府の役人との会食に呼ばれたはいいものの、新しい面子の若い女と見て集中的に飲まされてしまったのだ。
やっとの思いで連れ出したが、すっかり酔いが回ってしまった様子で、ひとりで歩くこともままならない。

役人どもが喜ぶわけだ、と腕のなかでちいさくなる彼女を見て思う。
上気した頬は紅をさし直したみたいに薔薇色に染まり、薄く開いたくちびるはつやつやと濡れている。
長いまつげを重たそうに持ち上げるとろんとした瞳もかすかに潤んでいて、彼女の少女ともおとなともつかない独特の色気を増長させていた。


横抱きの姿勢から、なるべく揺らさないようにそっとベッドに降ろす。
その身体が厚い羽布団に包まれるように沈んでいく。
閉じていたまぶたがわずかに開いた。
伸びてきた右手の指先を握ってやると、やわく握り返された。

「水をもらってくる。待てるか」
「待てない、行かないで……」
「飲んだほうがいい」
「……やだ、行かないで」

今まで聞いたことのないあまえた言葉と声に、胸の奥がくすぐられる気分になる。
髪の毛を耳にかけ背中の方に流し、宝飾品を外してやる。
きつく締め上げられた腰元のリボンをゆるめてやると幾分か楽になったのか、ほうっと息をつくのが聞こえた。

「義勇さん」
「どうした」
「きらいにならないで」
「ならないよ。どうした」
「だってわたし、今とてもはしたないもの」
「勤めを果たしただけだろう」
「やさしいです。いつも思っています、義勇さんはやさしいって。だからわたし、いつもあなたにあまえてばかりで……」

うん、うん、と適当に相槌を打っているうちに、気持ちが悪くなってきたのか満足したのか、彼女はまた喋らなくなった。
背中をゆっくりとさすってから頬を指の甲で撫でると、彼女はふにゃりととろけるようなほほえみを浮かべる。

不思議なことに、煩わしいとはすこしも思わなかった。これまで一度もだ。
傷つけぬよう傷つかぬよう、責任から逃れるように他人と距離を置き続けてきたのに、彼女は気がつけば側にいた。
あちらから懐に飛び込んできたのだったか、はたまた自分から呼び込んだのか、どちらなのかはよく覚えていなかった。
ただいつからか、彼女が隣で笑っていることが心地いいと感じるようになっていた。


彼女は、目で会話をするおんなだった。
口下手なおれの瞳の奥を見て、大事なことを掬いあげてほほえんでくれるようなひとだった。
自分のことになるととたんに盲目になって苦悩してしまうくせにひとのことには敏感で、相手の後悔やわだかまりを両手に抱き上げてそっと包み、許してくれるようなひとだった。
それはきっと、深層心理で彼女が許しを切望しているからなのだと思う。
どうしたって認められない、許せない自分と向き合う日々は、繊細な彼女をどれだけ苦しめたのだろう。
彼女がおれを許してくれるように、おれは彼女を許してやりたい。
これはきっと、愛なのだと思う。


「酔うとこうなるのか」
「こんなのはじめてなのでよくわからないです……」
「普段からそのくらいわがままを言ったほうがいい」
「そんなことしたらきらわれてしまいます」

ならないよ、ともう一度伝えようと思ったが、飲み込むことにした。
踏み込まず、踏み込んでこない今がきっとちょうどいい。
たいせつだと思いすぎることやたいせつなものを囲いたいと思うことは、いつだって不幸を招くのだ。
誰よりも知っている。
たいせつなひとを亡くすことも、たいせつなひとを喪わせることも、どちらもしたくはなかった。もう二度と。


前髪を撫でつけて、頬に触れて、こめかみのあたりを親指で撫でる。
なまえは譫言のようにおれの名前を繰り返し呼ぶ。
三度に一度くらい返事をしてやるのだが、それに対しての反応はなかった。
なまえに会うまで、おれは自分の名前がこんなにあまい響きを持っているなんて知らなかった。
いつまでこうしていられるのだろうか。
彼女がこの距離に耐えかねたとき、おれは進んで手を離さなければならない。
彼女があたたかな世界に帰りたいと思ったとき、おだやかな気持ちで送り出さなければいけない。
わずかなひっかかりを感じてしまうのは、自覚なしに踏み込みすぎてしまった証なのだと思う。


なまえの両腕が腰元に巻きつく。
ぎゅうと強く。

「義勇さん、わたし」
「もうおやすみ」

なにか言葉を続けようとするなまえを制すように口を挟んだ。
ややあって、すうすうと規則的な寝息が聞こえてくる。

「ごめん」

おれはずるいばかりで甲斐性のないおとこだ。
わがままを言っていいと告げたはずなのに、叶えてやれることなんてほんとうはこれっぽっちもない。
ただいつか彼女をあたたかな日の下に送り出してやるそのときまで、叶うことならば側にいたいと、そう思ってしまうのだ。