16:願いは飲み下して

「とことんやれ、とんやれなあ」

陽気な歌声が響く。
ひとをおぶったのは大分久しぶりだ。
彼女はおれの胸元に控えめに腕を回し、努めて楽しそうにしているようだった。
宍色の夕日が彼女の揺れるつま先を照らした。
風のすくない、いい天気だった。

「そろそろ重いですよね、すこし休んでいきましょう」
「乗ってんのか乗ってないのかわかんねェとおっかないから、多少重いくらいがちょうどいいんだよ。こういうのはァ」

偵察を兼ねた買い足しで、今日は一日中彼女と一緒だった。
彼女はやっぱり変わったやつだった。
にこにことずっと上機嫌で、今日の月は苺月だから恋が叶うだとか、その辺に咲いている花の名前はなんだとか、そんなくだらないことをずうっと喋り続けていた。
歌うように話すから、つい耳を傾けてしまう。
聞いてやるとうれしそうに笑うから、すげなくすることも憚られた。
母親がこどもにするように、日常の些細なきらめきを拾い上げて共有しようとする彼女が、おれにはなぜか無性に崇高な存在に思えた。
その笑顔を見るたび、彼女が剣を握り鬼を殺せるという事実をすっかり忘れてしまう。
守らなくてはいけないと思ってしまうのだ。

「いつもお屋敷まで送ってくださるし、歩く速さもあわせてくださるしお菓子も買ってくださるし、今もこうしておぶってくださって、不死川さんはほんとうにおやさしい方です。わたし、あまえてばかりで、すみません……」

「きょうだいが下にたくさんいたんだよ。そうしてんのが落ち着くんだ。自己満足だよ」

「じゃあなおさら。不死川さんには不死川さん自身があまえられるところが必要なのに」

「よくわかんねェや」


幼いころ、母におぶられるきょうだいを、すこしだけうらましく思ったことがあった。
母もきょうだいも、おれにとっては物心ついたときから、守るべき存在、守りたい存在だった。
ただ時折、ほんとうに稀に、無性にあまえたくなる瞬間があったのだ。
決まって夕日のきれいなときだったと思う。
そう考えるときがたまたま夕方だったのか、夕方を元々なんとなく物悲しくなってしまう時間だと感じていて、弱気になってしまうためにそんなことを考えてしまうのか、どちらだったかはもう覚えていない。
ただ、今でも夕焼け空を見ると胸のつまるときがある。
今日がたまたまそんな日で、靴を壊した彼女を背負ったのはもしかすると、彼女のためというよりはせつなさをごまかしたかったからという気持ちのほうがおおきかったのかもしれない。


「夕日がきれいですね」
「電話とかが進化して、いつかこういうことを、遠く離れたやつに手軽に知らせられる世の中になったりすんのかねェ」
「すてき!虹がかかっていますよ、まもなく雪が降りますよ、こぶしが咲きましたよ、とか」
「夕飯の予定とか、今なにしてんのかとか」

おとなになって家族や友人と離れてしまっても、それなら近くに感じられますね、と彼女は上機嫌で言った。
それからしばらくの間、おれたちは未来の妄想話を繰り広げた。
彼女はたのしげに声を弾ませながらずっと笑っていた。
写真もふとした時に撮影できるようになればいい、遠く離れたところにもっともっと早く行けるようになればいい。
さみしいひとが減るように、世の中のせつなさがすこしでも減るように、もっと便利でやさしい世界になればいいね、と。


遠くに屋敷が見えてきた。
ちょうど用事を済ませたのか、車から冨岡が降りたところだった。
「あ、義勇さん!」
彼女がおおきな声で冨岡を呼ぶ。背中がびりびりと震えた。
冨岡は振り返って立ち止まり、そのまま彼女を待ってくれているようだった。

重心が変わって、彼女の背中がぴんと伸びているのがわかる。
おれは、冨岡が彼女のこの母のようなやさしさを独り占めにしているのをすこし恨めしく思った。
娶るわけでも交際するでもなく、ただ吸い上げるだけ吸い上げているそのずるさが憎いと思った。

彼女をそっと降ろす。
ありがとうございました、と一礼すると、彼女はけんけんをするみたいに片足で跳ねていった。
冨岡もめずらしくすこし慌てた様子で彼女を迎えに歩きだす。
デイドレスの裾がひらひらと、蝶の舞うみたいに揺れた。
夕日がきれいで、屋敷の裏の森も深い色をして、世界は眠りにつく準備をしていた。
彼女の髪の毛が、水面でゆらめく魚のしっぽみたいにきらきら光った。
冨岡の側まで行くと、彼女はその胸にごく当たり前にぴったりと寄り添った。
まるで元はひとつの生き物だったとでもいうみたいに、お互いそこにあるのが当たり前みたいに、ふたりはよく似合って見えた。

「どうした」
「靴が壊れてしまって、不死川さんがおぶってくださったんです」
「そうか。すまなかった」

まるで自分のしでかしたことのようにおれへ謝る冨岡に、また例えようのない恨めしさを感じた。
彼女は冨岡に軽々と横抱きにされて屋敷のなかへ消えていった。
おれに背負われるときは大分渋っていた彼女は、冨岡に抱かれるときはおとなしくすんなりと首に腕をまわしていた。

いつだって別れは唐突に来る。
早く思いを告げて、収まるところに収まればいい。
そのときおれは、芽生えはじめたこの気持を告げなかったことを、後悔するだろうか。