17:警鐘と恋慕

今日は穏やかな一日だった。
一日中、しとしとと雨が降っており、たいせつな来客もなかった。
奥さまとお茶をいただいたり、会堂に行ってお祈りをしたり不死川さんと煉獄さんと会議をしたりして、あとの時間はずうっと義勇さんとふたりきりで他愛もない話をしたりそれぞれ本を読んだりして過ごした。
ダンスの練習をしてみたりもした。わたしたちはふたりともまるで才能がなくて、それぞれ裾を踏んだり足を踏んだりしながら適当にゆらゆら揺れるだけだった。
以前に比べると、義勇さんは大分わかりやすく笑うようになったと思う。


「どうした」
「雨を見ているんです」
「すきなのか」
「だいすきです。雨も、晴れも、雪も曇りも。記憶を強固なものにしてくれるから。わたしはきっと今日のことを、いつかの雨の日にいとしい時間を過ごした、って思い出すんです。今日みたいな雨の日に。雨のにおいがするときに、きっと」

義勇さんはしずかに近づいてくると、窓辺に立つわたしの右肩に顎を乗せる。
外にはねる癖のついた横髪が頬をくすぐる。

「義勇さんは存外あまえんぼうさんですね」

頬を寄せて義勇さんの頭を撫でると、義勇さんもほんのすこしだけ顔をこちらへ傾けてくれた。
たまにこうして急に近くなる距離にもすこし慣れたような気がする。
言葉を交わすように寄り添う義勇さんの、不器用であたたかなこころがわたしはだいすきだ。
わざわざ言葉にしたり笑みを浮かべたりしなくとも、身体の内側まで直接伝わるぬくもりが、わたしのこころをじんわりとやさしく癒やしていく。
わたしはそれだけで、じゅうぶんに満たされた気持ちになれた。

「おれはお前の、そういうところがすきだ」

耳元で義勇さんの低くあまい声が響く。
水面にしずくを落としたみたいに、わたしたちふたりの空間にじんわりと波紋を残して広がっていく。
心地よさの影に、心臓の底がじりじりと焦げていくようなもどかしさがあった。
義勇さんはそのままの体勢でゆっくりと言葉を繋げていく。
同じ石鹸を使っているはずなのに、義勇さんのかおりはわたしのとはまるで違う。
肺の奥にずしんと重たく残る、もっともっと深いかおりだ。
せつなくなるほど懐かしいような、生まれる前から知っているかのような、わたしの身体の細胞のぜんぶがこれを欲しているみたいな、そんなかおりなのだ。

「花や空やそこにあるものを見つめて、あいして、そうして日々を豊かに暮らそうとしているところが」

わたしは、義勇さんが今どんな顔をしているのか確かめたかった。
なぜだか、無性にそう思った。
義勇さんのほうを向く。義勇さんもわたしのほうへ顔を向ける。
ともするとくちびるどうしが触れてしまいそうな距離だった。

義勇さんの表情は近すぎてわからなかった。
見たくて顔を向けたのに、もう見えないほうがよかった。
想像よりもずうっと近いその距離に戸惑う。
わたしは顔じゅう耳まで真っ赤にして、眉を寄せ瞳を揺らし、なんとも間抜けな顔をしているに違いない。

時がとまってしまったみたいにじっと固まって、わたしたちはその距離のまま見つめあう。
心臓がおかしくなってしまいそうですこし距離を取るように背を反らしたけれど、義勇さんもその分距離を詰めてくる。
思わずぎゅうっと目を瞑った瞬間、窓をびりびりと震わせるほどの轟音が響いた。
ほぼ同時に、あたり一面が炎で焼けついたかのように真っ白になるのが、まぶたを閉じたままでもありありとわかった。
あっと甲高い悲鳴がこぼれる。

「雷か。近いな」

雨の音がざあっと激しくなった。荒々しく吹く風が窓枠をがたがたと揺らす。
あたりが一気に暗くなり、部屋のなかも真っ黒な影に覆われてしまう。
再び雷鳴が轟く。

「ひっ」
「苦手なのか」

義勇さんとの近すぎる距離ですっかり使えなくなってしまった脳みそを雷の轟音が強打して、うまく物事が考えられないし、喉の奥が張りついてしまって声もでない。
やっとの思いでわずかに首を縦に振ると、義勇さんはちいさく笑った。

おいで、と言うようにかすかに両手を広げる義勇さんの胸に飛び込んだ。
光沢のあるやわいシャツを力一杯握る。
わたしの髪の毛が宙にあそんでいくつもの束になり、力をなくしてはらはらとまたわたしの肩に、背中に落ちた。
同時にまたごろごろという地響きのような、地球がまんなかから破裂したみたいな、耳をつんざく轟音が空間を震わせた。
わたしはおでこが擦りむけてしまいそうなほどの勢いで義勇さんの胸に顔を埋める。
かたく握っていた拳をほどいてその腰元に巻きつくと、義勇さんはそっと片手でわたしの頭を抱いてくれた。

「平気か」

返事をする代わりに、わたしは片手でぽこぽこと義勇さんの腰元を叩いた。
畳み掛けるような戸惑いの数々で頭が混乱したまま、今もまだぐちゃぐちゃで整理がつかないのだ。
義勇さんが近い。とても近い。雷がこわい。それもとても。


あのまま雷が鳴らなかったら、わたしたちはどうなってしまっていたのだろう。
義勇さんはなにを考えて距離を詰めてきたのだろう。
あのままもしもくちびるが重なってしまっていたら、もしもそんなことになってしまっていたら、わたしはどうなってしまっていたのだろう。
そんな間違いがあれば、きっとわたしは義勇さんがほしくてほしくてたまらなくなってしまう。
全部まるごと知りたくてたまらなくなってしまう。
そんなことはあってはならない。決してあってはならないのに。

「……びっくりしました、とても、とても」
「ごめん」
「ばか、ばかです、義勇さんのばか……」

どうして、とは聞かなかったのは、どんな答えが返ってきても上手に返せる気がまるでしなかったからだ。
わたしはちょっとだけ義勇さんを恨めしく思って、ぽこぽこ、ぽこぽことその腰元を叩き続けた。

「……シベリア」
「バームクーヘンもつける」
「一緒に行ってくれないといやですよ」
「わかった」

稲光と雷鳴の感覚が空いていく。雷雲がすこしずつ遠ざかっているようだった。
わたしのこころもすこしずつ落ち着きを取り戻していく。
義勇さんの両腕が、わたしの耳を塞ぐように頭を強く抱いた。
こころの内側、芯のあたりから熱い気持ちがじんわりと広がっていく。
まぶたの奥をちかちかさせる激情が息を吸うごとに身体中をほとばしるのを感じる。

雷もこの近い距離もどちらもわたしにはこわかったけれど、同時に義勇さんの胸にあたりまえに飛び込めてしまうことが、うれしくてうれしくてたまらなかった。
歯止めがきかなくなりそうなのに、そんなのだめなのに、どうしても勝ってしまうのは義勇さんに触れられるしあわせだった。
逃げるように目を瞑る。義勇さんの心臓の音が聞こえる。