20:希求

不死川さんとの一件を義勇さんが深く聞いてくることはなかった。
わたしもそのことには触れないまま、数日が過ぎた。
不死川さんの態度も以前と変わることはなかったけれど、あの日以来、義勇さんとの関係について聞いてくることはなくなった。
うやむやにしてしまうのが満場一致で都合がいいということだと思った。

明日はいよいよ舞踏会が開かれる。

不死川さんや煉獄さんが偵察に行ったほかの舞踏会に鬼は出なかった。
狙いは稀血の奥さまと見てほぼ間違いない。もしくは、奥さまに近しいひとの誰かが人間に扮する鬼なのか。
いずれにせよ、明日の舞踏会へ標的が来ることは確実だと踏んでいいだろう。


そわそわと落ち着かないわたしをよそに、義勇さんはいつもどおりの涼しい面持ちで、窓際に椅子と机を置いて刀の手入れの準備をしているようだった。
おろしたままの長い髪の毛が風に遊んでさわさわと揺れている。

「義勇さん、髪の毛を結んでもいいですか」
「別に構わない」

明日無事に討伐が終われば、それ以降はまたいつに会えるかわからない。
わたしはなんだかすこしでも会話をしたり触れていたいような気がして、義勇さんの髪の毛をゆっくり、ゆっくりと、やさしく梳かした。
もしわたしが死んでしまったらもう会えない。あたりまえだけれど。
もし、明日目が見えなくなってしまったら、もう義勇さんを見ることができない。
わたしたちは明日、そして明後日、この先、いつなにを失うのかまるでわからない、まるで細い枝の上を歩くような人生を送っているのだ。

「いつまで梳かしてる」

急に振り向いた義勇さんに向けるうまい言葉が見当たらなくて、妙な沈黙が続く。
これからもずっと一緒にいたい。そう思ってしまっていることに気がついて、こわくなったのだ。
たかが数週間共にいただけで、自分がこんなに欲張りになってしまうとは考えてもみなかった。
おそろしいことだ。あってはならないことだ。
同時に不死川さんの言葉が蘇る。
言えなくなってしまう前に、伝えておくほうがよいと。秘めたままにしておくのもまた残酷だと。

「どうした」

わたしは努めて精一杯の笑みを浮かべる。吐息ともつかない情けない声が出た。
義勇さんはすこしの間怪訝そうな顔をしていたが、わたしが口を割らないのを見て、ほうとちいさく息をつく。
問い詰めるのはあきらめた様子だった。
かわりにすっと伸ばされた片手がわたしの頬にあてられる。
わたしはその熱をすこしも逃したくなくて、すがるように頬ずりをした。

「くちびるが濡れてる」
「水飴をいただいて。あまいんですよ、つい舐めてしまうの」

つやつやと宝石のようにかがやくくちびるを見る目が物欲しそうに映ったのだろうか。
今朝、奥さまはわたしを自室へ呼んでくださるとこっそり上質な水飴を持たせてくれた。
紅を引く前に薄くひと塗り、仕上げにはたっぷりと塗れば、わたしのつまらないくちびるも星屑を散らしたみたいにきらきらかがやいた。
ほかの誰でもない義勇さんに気づいてもらえたことがうれしくて、わたしのこころは先ほどまでのせつなさをすっかり忘れてしまう。


義勇さんの親指がわたしのくちびるのぎりぎり下をなぞった。
その絶妙な力の加減に息が止まる。
もう片方の手が伸びてきてその指先が頬に触れた次の瞬間には、一枚の紙切れすらも入り込めないような近い距離で、わたしたちは見つめあっていた。
わたしは引き寄せられたその距離のまま義勇さんを覗き込む。
義勇さんの指の隙間からはらはらと落ちたわたしの髪の毛が、彼の髪の毛に混じる。

何かを言ったり感じたりするより先に、義勇さんの熱い吐息がかかった。
くちびるの輪郭のいちばん下から口角までをゆっくりとなぞり上げるように熱い舌先が触れる。
ゆっくり、ゆっくり、やさしく、たったそれだけのごく短い距離をじっくりと味わうように。その熱で溶かすように。
その舌先が音もなくそうっと離れたとき、感じたことのないくらいのあまい快感が身体中を駆けめぐった。
目と鼻の奥がつんと痛くなって視界がにじみ、手も足もすべてが力を失くして、わたしはそのままずるずると床にへたり込んで動けなくなってしまった。
天鵞絨の絨毯はひんやりと冷たかったけれど、のぼせたわたしの熱はすこしも治まらない。


不死川さんのは紛れもなくくちづけだったけれど、今のはそうじゃない。舌先がほんのわずかにくちびるをかすめただけ。
それだけなのに、もっとずっとずうっといけないことをしてしまったような感覚だった。


「誰にでもこんなにたやすく触れさせるのか」


義勇さんはしずかにわたしを見下ろしながら、親指の腹で自身のくちびるの端をゆっくりと拭う。
電流が走ったように身震いが起きて熱い吐息が溢れた瞬間、わたしのなかでなにかが弾けたかのように、後ろ暗い気持ちを隠して押し込めていた箱の蓋が壊れてしまったかのように、堰き止めていた激情がどっと押し寄せてきて身体じゅうを駆け巡った。


「いつだっていやじゃないのも、抵抗しないのも、それは義勇さんだから、です。義勇さん、わたし……。わたし、義勇さんに言いたいことがあるんです。でも、まだ言えないの。でも、言えないまま死んでしまうかもしれない。会えなくなってしまうかもしれない。それはいや。すごくいやです」

「なまえ……」

「触れあえば、この気持ちは、伝わるのでしょうか」


声が震えた。涙がはらはらとこぼれる。
義勇さん。義勇さん。
ほんとうは、あなたがだいすきでたまらない。いつだって側にいたい。
欲ばりなわたしも知ってほしい。隅々まで知って、受け止めてほしい。
任務が終わっても、夫婦じゃなくなっても、ずっとずっと。

今は言えない。


「なまえ」


いつかは言えるかな。いつかなんて来るのかな。
胸を張ってすきと言えるわたしになれるときがくるのかな、あなたの側にいてもおかしくないおんなになれる日が、いつか。

わたしたち鬼を知るものにとって、誰かと共に生きるという決心はとてつもなく重たい。
死なせない覚悟、死なない覚悟、たくさんの覚悟がいる。
鬼の脅威も先立たれるせつなさも痛いほど知っているわたしたちだから、たいせつなひとをそんな苦痛に晒すのはなんとしてでも避けたいことだった。
弱いわたしは万が一義勇さんのたいせつなひとになれたとしても、義勇さんをふいに置き去りにされる恐怖のもとに晒すことになってしまう。
そんなのは絶対にいやなのだ。
守られるだけじゃない、自立した人間になりたい。
あいしていると伝えたいのはそれからだ。


義勇さんはどこかが痛むみたいに目を細めると、地べたにへたり込んだままのわたしにゆっくりと覆いかぶさった。
そのままわたしの後頭部におおきな手のひらをあてて後ろ髪をくしゃりと掴むと、首筋にそうっと鼻を寄せ、ごくやわく噛みつくようにくちびるを這わせる。
義勇さんの膝が足の間に入り込んでわたしのいいところを刺激する。
一瞬の沈黙のあと、電流が走るようなあまい快感を首筋に感じた。
強く吸い上げられたあとくちびるはゆっくりと離れて、そのあと傷口を舐め上げるみたいにして舌先が離された。
耳音で響く水音がわたしの羞恥心と高揚感を高めていく。

しかし、それきりだった。

「こんなふうに始めることじゃない」

低い声で一言そう呟くと、義勇さんはゆらりと半身を起こした。
やっぱり、どこか痛そうな、せつなそうな顔をしていた。
わたしのほてった身体を冷たい絨毯がすこしずつ冷やしていく。
恥ずかしい、やめないで、言いたい、言えない、義勇さんがすき、せつない。
いろんな気持ちがないまぜになってぐるぐると頭のなかを駆け巡るけれど、いちばん色濃くはっきりと思うことは「よかった」だった。
なぜだかわからないし負け惜しみみたいだけれど、よかったと、確かにわたしはそう思ったのだ。強く。

義勇さんに手を引かれて、わたしもゆっくりと起き上がる。軽く立ちくらみがした。
よろめいたわたしを義勇さんはその胸のなかに引き入れる。
わたしは手のひらを両方とも義勇さんの広い胸にあてて、そっと目を閉じた。
ごめんと低く呟いた義勇さんの声にあわせて、その胸元がびりりと震える。

「いいえ、これでよかったの、きっと」

おかしなことに、こうして寄り添っているほうがよっぽどわかりあえる気がした。
わたしの愛情も、義勇さんのやさしさも、もどかしさもすべてを。