21:みなと

藤の花のかおりに満ちた狭い会堂のなかで、人々は皆一様に不安げにささやきあっていた。
西洋ろうそくのあかりがステンドグラスに反射して、深い色彩のひかりでどよめく空間を照らしている。
やがて、窓硝子を叩くこんこんという無機質な音が響いた。
義勇さんの鴉だ。
思ったよりも大分早い、戦闘の終わりを知らせる合図に、ほっと胸を撫でおろす。

一部の電気が復旧したから別の広間で夜会を仕切り直すと説明すると、存外すんなりと納得してくれたようで、奥さまに倣い皆ぞろぞろと会堂を出ていった。
来たときと別の小道から本館へと向かうひとたちの揺れる背中が見えなくなってからも、ずっと、わたしはぼうっと扉の前に立ち尽くしていた。
屋敷は騒動の起きた大広間を分断するように、そこから西側だけにあかりが灯っていた。


腕の傷をからっ風が撫でる。
会堂までの小道を行く途中、細い枝に引っかけて負っただけの、ほんのちいさなかすり傷だ。
みんなの身体は無事だろうか。痛い思いをしていないだろうか。
ぼんやりとした頭のなかで、わたしはみんなの無事を祈りながら、騒動の一部始終を思い出していた。


舞踏会が始まって間もなく、シャンデリアのあかりが二度点滅した後に消えた。
鬼が動き出したから手前側の扉から出ろ、という合図だ。
一度なら奥、二度なら手前。
押し開けた観音開きの扉の側には、あらかじめ灯しておいた西洋ろうそくのあかりがいくつも揺らめいている。
吹き抜けになっている二階部分の暗がりでは義勇さんが標的を拘束してくれていた。
鬼の存在をひそやかにしたまま、人々は案内するまでもなくその扉から外へと出ていく。

重たい扉を煉獄さんが閉めてくれる。
その隙間から、鬼の攻撃が義勇さんの頬をかすめたのが見えて、わたしは思わずあっと叫んだ。
義勇さん、とおおきな声を上げそうになるわたしを煉獄さんのやさしい声が制した。

「なまえ」

彼にはめずらしい勝ち気な笑みだった。


義勇さんの鴉が、わたしの頭上を二度ほど旋回してから、翼をおおきく広げて屋敷のほうへ羽ばたいていく。
大広間の扉が開いて、黒い影が三つ見えた。
たまらずに駆け出すと、そのうちのひとつも歩く速度を早めてくれたのがわかった。義勇さんだ。
おおきな月と豪奢な洋館を背負って歩いてくる三人は、震えるほど格好よかった。
義勇さんのくちびるがゆっくりと動く。
ただいま、と言っているように見えた。

「おかえりなさい、義勇さん……!」

半ば体当たりのように飛びついたわたしを、義勇さんはしっかりと抱きとめてくれる。
だいすきなかおりが胸いっぱいに広がる。
このかおりなしではもう生きていけないとさえ思ってしまう。
義勇さんのために強くなりたいのに、出会って以来、わたしは弱くなる一方だ。
できていたことさえできなくなってしまいそうでこわい。
どんどん欲深くなっていくのがおそろしい。
信じて待つこともままならない。
苦しい思いをしていたら、と考えると、不安で息がうまくできなくなってしまう。
誰かをあいして生きているひとたちは、どういうふうにこの恐怖に折り合いをつけているのだろう。

「よくやった」
「なにもできなかったです。こわくて、信じて待つことすら、わたし」

義勇さんは穏やかな面持ちで、わたしの頭を軽く撫でると今度は慈しむようにほほえんでくれた。
煉獄さんと不死川さんも安堵からか穏やかな笑みを浮かべていた。

西洋ろうそくのあかりをひとつひとつ消していく。
この日のためにわたしが藤の成分を加えて作ったものだ。
藤特有のこっくりとしたあまいかおりがふわりと立ちのぼり、夜に消えていく。
火を消したときのいちばん濃いかおりがすきだ。別れを名残惜しむような刹那のうつくしさ。

あのときわたしが取り乱していれば、人々の混乱を招き、騒動の収束は格段と難しくなっていただろう。
己の未熟さが恥ずかしくてたまらない。
義勇さんに、鬼殺の道を歩むひとに、自分はあまりにも不似合いだ。
たち消えるこのうつくしい炎のように、一層のこと今、かおりだけを残してこのひとの前を去るべきなのだろうかと、そんなことをぼんやり考えた。


やがて、煉獄さんと不死川さんは元いた洋館のほうへ戻っていった。
残されたわたしたちも、つかの間の夫婦生活を過ごした屋敷へと足を向ける。
腕を組む必要はもうなかったから、ただ横に並んで、ゆっくりゆっくりと月を見上げながら歩いた。


「おれもすこし、こわかった」


義勇さんは、立ち止まってそう呟いた。
藤のにおいがまだかすかに立ち込める夜の静寂に、義勇さんの声が溶けていく。

「お前を守れなかったらと思うと」
「そんな」
「たいせつだと思うことが己の弱点になってしまうことがこわかった。前までは、そういうふうに思っていた」

風が吹いて髪の毛を揺らす。
義勇さんの澄んだ水底のような深い青の瞳が、ほの明るい月のひかりを孕んで蠱惑的にかがやいている。
わたしはおそろしいとも期待ともつかない複雑なこころ持ちになって、胸の前でぎゅっと指を組み、義勇さんの言葉の続きを待った。


「今は、それも悪くないと思っている。帰りたいという気持ちは、前の自分にはなかったものだからだ」

「……おかえりなさい、義勇さん」

「ただいま、なまえ」


改めてそう告げると、義勇さんはうんと目を細めてほほえんだ。
見たことのないやわらかな表情だった。
これが義勇さんのほんとうの笑顔なのだと思った。
はじめてこころのまんなかに触れられた気がする。
本来の義勇さんはこんなにもやさしい顔をして笑うひとなのかと思うと、いとしさが溢れて溢れて止まらなかった。
控えめに広げた両腕のあいだに、義勇さんはなんのためらいもなく滑り込んできてくれる。
背中を丸めてわたしの肩に顔を寄せる義勇さんの頭をそっと撫でる。

弱くなることで強さを手に入れることはできるのだろうか。
そう自問してみる。
義勇さんに出会って、わたしはより弱虫になったけれど、以前までの死にたがりな自分はもういなかった。
義勇さんと生きたい。生きたいから強くなりたい。
わたしを突き動かす生命力は、たしかに義勇さんへの愛が生みだしたものだった。