23:願い咲きほこれ

荒間格子の硝子戸からは中庭が見えた。
ほの白い月あかりに誘われるように廊下へ出る。
中庭へ出るためのもう一枚の硝子戸に手のひらをあてて、四角く切り取られた空を仰ぐと、ちょうどてっぺんのところにまあるい月が見えた。

客間を振り返ると、文机の上の椿がまるで自らひかりを集めているかのようにくっきりと照らしだされているのが見える。
曲がり角を挟んで隣の部屋のほうをちらりと見れば、戸に手をかける義勇さんと目があった。

「冬の月は遠くに見える」

義勇さんは後ろ手で戸を閉めてわたしの隣に立つと、片腕に下げていた羽織を掛けてくれる。
月あかりのもとの義勇さんは、初冬の凛と冷えた空気のなかで、ひかり立つようなうつくしさを携えていた。

「冬が深くなればもっと遠くに見えます。そして夏は近くに。月を見れば、離れていてもどこにいても、きっと同じ時を感じられますね」

まるで世界には、義勇さんとわたしのふたりだけしかいない、というみたいにしずかだった。
身体が冷えるのを気にもとめず、わたしたちはただじっと、まだなにもない庭を見つめる。


「すてきなお庭です。朝になれば鳥も見られるでしょうか」

「冬が終わったら花を植えたい」

「藤、紫陽花、りんどう、桔梗、芍薬」

「芍薬、すずらん、椿、薔薇、あやめ、牡丹」


わたしはうつくしい花のなかでも、義勇さんの凛とした雰囲気にとりわけ似合いそうな花をいくつか挙げた。
目の前のちいさな世界が色とりどりの花々で溢れる様子を想像してみる。
その花のひとつひとつが義勇さんのこころを彩る様を。
撒いた種が育ち、青々とした葉をつけ、やがて花開いたとき。
日常のなかのちいさなしあわせやかがやきが義勇さんのこころに届くようになったことが、わたしはうれしくてたまらなかった。


義勇さんは一度わたしのほうを見やると、目線をまたまっすぐ前へと戻す。
息を吸う、かすかな呼吸の音が聞こえた。

「柱になった」

凛と芯の通った低い声。
透明な水のように涼やかな声。
はい、と頷いて返す。
実のところここにくる前から知っていたことではあるけれど、改めて彼の口から告げられるその事実は、わたしの心臓の奥にずしんと響いた。


「おれは今まで、様々なことから逃げてきた。向き合うことも、認めることも、前に進むことすらこわかった」

「……はい」

「しあわせになることで錆兎と姉さんの死を風化させたくはなかったし、たいせつなひとを二度も死なせたおれには、しあわせになる資格などないと思っていた」


義勇さんは噛みしめるようにゆっくりと言葉を繋いでいく。
わたしは義勇さんの感情を一粒も取りこぼしたくなくて、その瞳を見上げた。


「お前の自己犠牲的な思考を責めたとき、おれはお前の影に、陰気な自分自身を見ていた。おれにはできないが、お前には呪縛のような苦しみに囚われないで生きてほしかった。願望を押しつけた」

「……はい」

「与えられた立場に実力が伴っていないことはわかる。柱と名乗る資格がないことも。おれの弱さはおれがいちばん知っている。それでも」


義勇さんのやさしくて繊細な言葉がわたしの胸を満たしていく。
わたしは義勇さんの言葉を遮りたくなくて、ゆっくりと頷きながら短い相槌だけを返した。
凪いだ海のようなおだやかで深い青色の瞳にわたしが、わたしだけが映っている。
このひとのすべてを愛し、許し、肯定して生きていきたいと思う。


「守りたいだけの約束を口にしても許されるだろうか」
「はい……もちろんです」

「お前を守る。おれも死なない。お前をひとりにはしないと誓う。だから、共に生きてほしい」

「……ひとは皆弱いです。だからこそ寄り添って生きていくんです。そして、だからこそ、誰かのために祈り願うことができるんです。義勇さんの存在がわたしのこころを守ってくれる。未熟なわたしだけれど、こんなわたしでも義勇さんのこころを守ることができるのなら、共に生きたい。わたしは、義勇さんと生きたい」


完璧に強くなくてもいい。
自分をあいせなくてもいい。
自分の人生をあいせなくても。
自分のためだけには生きられないけれど、わたしたちはわたしたちのためになら、きっと前を見て生きていける。


「義勇さんがだいすき」


ずうっと言えなかった言葉は、義勇さんの濡れたまなざしに導かれて、初めてわたしの喉を震わせた。
上背の高い義勇さんは、そのまま覆いかぶさるように、宝物をそっと守り隠すように、その両腕にわたしを抱いた。
すっかり冷え切ってしまった身体を義勇さんの熱がじんわりとあたためていく。

「すきだ」

ほとんどささやきのような声だった。
低くて、あまくて、すこし鼻にかかった凛とした声。わたしのすべてを溶かす音。

やわく押し返されて、わたしたちはすこしのあいだ見つめあう。

「なまえ」

義勇さんのおおきな手のひらがわたしの両頬を包んで、ゆっくりとくちびるが重なる。
角度を変えて幾度となく繰り返す。
そこにいるという事実をただ確かめているみたいに、そっと、そっと。


義勇さんはどんな決死の思いで、わたしと生きることを選んでくれたのだろう。
どんな思いで、その気持ちを告げてくれたのだろう。
どんな思いで、いつからそのこころに秘めていたのだろう。
くちびるに触れるあまい感覚と義勇さんの思いのありがたさに胸がいっぱいになる。
しあわせでたまらないのに、せつないみたいに心臓がきゅうと痛くなる。
たくさんの気持ちは涙になってはらはらと流れた。
ただしずかに、はらはら、はらはらとこぼれた。