32:片腕を抱く者

非常に誤解されやすいが、義勇さんは実に愛情深いひとだ
おれと禰豆子を救ってくれた。いのちをかけてくれた。
いつも、うずまく不安や劣等感のにおいの影に、ひっそりと息をひそめた慈愛のかおりを感じる。
やさしいひとだ。

薄氷を幾重にも重ねるようにして細やかなやさしさを巧みに隠そうとする義勇さんの隣には、こころのうつくしい女性の存在があった。
義勇さんとやっと会話らしい言葉を交わすことがかなった日、そば屋から帰ってきたおれたちを、なまえさんは玄関で迎えてくれた。
彼女はここ数日、意図しておれたちの前にはほとんど姿を現さなかった。
時折廊下で顔を合わせては、義勇さんを頼みます、と頭をさげて、可憐な笑顔をくれる、決して気取らない野花のような女性だ。

彼女が差し入れを届けてくれるたび、義勇さんからは、普段のようになにかに厳重にくるまれたものではなく、もっと直接的でわかりやすい、やさしさと愛情のにおいがした。
顔色を寸分も変えない義勇さんの、そのわずかなにおいの変化を嗅ぎとったみたいに、彼女はこともなげにほほえむのだった。まるで、受け取った愛情のお返しをしているかのようだった。

「それで、ふたりでおそばを食べたの?」

三人でいるときも、義勇さんが言葉をこぼすことはほとんどなかった。
なまえさんとおれの声ばかりが響いていたけれど、義勇さんは疎ましがる様子も見せずに、彼女の隣でしずかにお茶をすすっていた。
安堵のにおいがした。



貰い湯のあと、居間へ戻ろうと廊下を歩いていると、囲炉裏のそばに腰を下ろして足をななめに崩したなまえさんの前に座り、その胸にもたれかかる義勇さんの姿が、硝子の格子戸越しに見えた。
なまえさんは義勇さんの濡れ髪をやわらかそうな真白い手拭いで撫でながら、時折たのしげに笑みをこぼして、そして時折、とびきりうつくしい所作で彼のこめかみへくちびるを落とした。
ふくよかな胸のふくらみに仰向けに沈んでいく作り物のようにうつくしい横顔を眺めるうちに、出て行く機会を逃してしまい、廊下を右往左往していると、やがて、気がついたなまえさんが慌てた様子でちいさく手招きをしてくれた。

月明かりに誘われるようにふと横を向くと、よく手入れの行き渡った中庭が見えた。
中庭は、玄関から続く長い廊下と行きあたる廊下との向こうにあって、石灯籠とちいさな池を囲むように、色とりどりの花々が咲いていた。
月のひかりは中庭だけに濃く落ちて、廊下や部屋などはそこから反射したひかりのかけらでじんわりと照らされているのみであった。
ぽっかりと白く浮かび上がるような庭は、ちいさな桃源郷のように見えた。

「すみません、邪魔をしてしまって」
「ううん、気を遣わせてしまってごめんなさい」
「休まったか」
「はい!よもぎ湯ですね。いい湯でした」

手拭いを置いたなまえさんは、今度は櫛を手に取り、姿勢を正した義勇さんの髪の毛を丁寧に梳かしていく。ごく自然な流れだった。湯上りはそういうふうにして過ごすのが、ふたりのきまりなのだろう。

「おふたりはいつからいっしょにいるんですか」
「共に住みはじめたのは、お前に会うよりすこし前だ」
「義勇さんは、大切なひとがありながら、自分の立場やいのちをかけておれや禰豆子を守ってくれたんですね。何度も」
「出会っていなければ、選べていなかったかもしれない。いながらと言うよりは、いたからと言うのが正しいだろう」
「もう、買いかぶりすぎです」
「じゃあおれたちは、ふたりに助けてもらったんですね」

少量の瓊姿香を義勇さんの下ろし髪の毛先から全体へと馴染ませながら、なまえさんは目を細めてはにかんだ。
香木のいいかおりが広がる。この邸宅はどこにいても、香木や花やおしろい、ときにはミルクのようなやわらかなかおりが、どこからともなくふんわりと漂ってくる。
こころの休まるかおりだ。
義勇さんを案ずる彼女の気持ちが伝わってくるようだった。


その日はうんと夜ふかしをした。
なまえさんはおれの頭髪をも丁寧に拭いてくれて「おとこのこはみんなびしょ濡れで出てきてしまうものなのかしら」と、笑った。どことなくうれしそうだった。
夜食に西洋菓子をいただいて、ふたりのなれそめを聞いたり、柱稽古の様子や今日のそばの感想を話したりした。
なまえさんはやがてそのちいさな身体で三組の布団を運んでくると、囲炉裏をぐるりと囲むように敷いた。
おれたちは布団に入ってからも、しばらくのあいだ会話を続けた。
すべての火を落としてしまっても、差し込む月のひかりで、室内はとても明るかった。

善逸や伊之助は今ごろなにをしているだろう。もう、眠りについているだろうか。
こうして布団を並べて他愛もない会話をしていると、同期たちのことが思い出される。つい最近のことなのに、もう遠い昔のことのように感じた。
義勇さんにも、こうして賑々しく過ぎる夜を過ごすことがあっただろうか。どんな少年期を過ごしたのだろう。
ふと見やった義勇さんの横顔は、すこしだけ、泣きだしそうに見えた。
せつなさのにおいがした。
朝起きると、なまえさんの姿は見えなかったけれど、義勇さんはなまえさんのいた布団のなかで、おだやかに寝息を立てていた。


稽古も終わり屋敷を出ていくおれを、ふたりは並んで送り出してくれた。
義勇さんの胸にそっと寄り添って立つのがなまえさんのお約束で、そのときなまえさんの腰に手を添えるのが、義勇さんのお約束。その絵画のようなふたりの立ち姿や、顔を寄せ合い言葉を交わす様子を見ると、おれは心底安心するのだ。

ここを訪れたはじめの夜、自信がないと呟いて、なまえさんにしなだれかかる義勇さんを盗み見た。
自信とは才能のようなもので、必ずしも努力に裏づけされるものではないと、おれは思う。
厳しい鍛錬を積み柱まで上り詰めた、誰しもが認める実力を持つ義勇さんだけれど、そのこころの内から自信が湧き出てくるなんていうことは、この先ただの一度だってないのかもしれない。
義勇さんはなにに対しても、生きることに対してだって執着していないように見えるから、身を焦がすような後悔と劣等感の果てでいつかそのいのちさえも投げ出してしまいそうで、こわかった。彼女と一緒にいるところを見るまでは。

彼女はどうやって、義勇さんのこころの核を抱いたのだろう。
否、抱かれたのは彼女のほうなのかもしれない。
義勇さんはきっと、自らの両手で守りきれると思ったものだけをその胸に引き入れるのだと思う。
おれや禰豆子も、きっとそのうちのひとりなのだ。
そしてきっとこれからも、ひとり、またひとりと、増えていくのだろう。
木々の背が伸び枝が増え、そしてわかれていくように。彼女がいる限り。


彼女がいる限り、義勇さんは大丈夫だと思えた。
義勇さんの隣に彼女がいて、ほんとうによかった。
おれもいつか、あんなふうに寄り添うだけですべてよしなのだと思えるような、そんな女性とめぐり会える日がくるのだろうか。

深々とお辞儀をした頭をあげると、見渡す限りの青空が広がっていた。
なまえさんが手を振ってくれた。生垣の椿の葉が、つやつやと力強くかがやいていた。