34:プラットフォーム

出かけることにした。手を繋いで。
おしゃれをして行こうかとも思ったけれど、着飾るのは今日にふさわしくない気がした。
ありのまま、なにげない日常に生きているわたしたちのまま、ふらっと外に出るのがよいと思った。片付けもそこそこにして、最低限の荷物を持って。

わたしたちはふたりであちこちを歩いた。
もしも足跡に色がついていて、たとえば白色だとしたら、このあたりの道々はどこもかしこも一面、隙間のない白になる。

ミルクホールへ行ってシベリアを食べて、ちいさな甘味処の軒先であんみつを食べた。
奮発してうなぎも食べた。
百貨店や異国情緒のあふれる仲見世の通りを覘いた。ときにはまわりのたてものには目もくれず、町じゅうにはりめぐらされた電線を見上げたりもした。
義勇さんは手を繋ぎながら、わたしの手の甲を親指の腹で何度も撫でた。
義勇さんの指はすらりと長くて女性のようなうつくしさをしているけれど、触れるととても硬い。
義勇さんの身体にはそういうあべこべなところがたくさんあって、それはきっと義勇さん以外にはわたししかしらないことだった。


「覚えていますか、わたしの庵にきたこと。藤の花を摘んでもらったんです」

「妙なまじないに付き合わされた」

「妙」

「妙ちきりんなまじないだが、自分の気持ちがかたちあるものを依代にして残ると思うと救われた。死ねばすべてがなくなると思っていたが、他者との繋がりのなかで生きていけるなら、そのすべてを遠ざけようとすることは愚かなことなのかもしれないと」

「死んでしまうことと、生きていくこと。忘れられないことと、忘れてしまうこと。置いていくほうと、置いていかれるほう。果たしてどちらが幸福なのでしょうか」


電氣館のむこうのひとごみのすこし開けた場所に、見慣れた黒の詰襟を見つけた。
不死川さんだ。いつもは開けている胸元を行儀よくあわせているのは、目立たないようにするためだろうか。
しかしわたしたちはどこにいたって、大概目立つ。ほかのひととは気配が違うのだ。鋭いにおいがする。あちらもすぐわたしたちに気がついたようだった。

「不死川さん、ご無沙汰しております」
「呑気なもんだなァ、手前ェらは」

不死川さんは、わたしたちの繋がれた手元を見て、大げさにため息をついて見せた。
不死川さんも今では柱のひとりだ。痣はまだ出ていない。
持たざる者の不死川さんは、今きっと底知れない努力をしている。更なる強さを得て、そして死ぬために。
まるで、死んでしまったほうが偉いみたいだ。無論、ただの言いがかりにすぎないことも承知しているけれど、この組織にいると時折、しあわせになることが、まるでとんでもなく悪いことのように思える。
わたしはいよいよ、この組織というものが、物事のよしあしが、なにもかもが、よくわからなくなってきてしまった。

「それが、それほど呑気でもないのですよ」
「……駆け落ちでもしそうな面」

そう言い残して、不死川さんはひとごみを切り裂くようにずんずんと歩いていった。
気を悪くさせてしまったかもしれないと思ったけれど、見えなくなるよりもすこし前に、背中越しに手を振ってくれた。
振り返ってくれないことをわかったうえで、わたしも手を振り返した。そうして不死川さんの背中は、賑わう楽しげなひとびとの群れに溶けていった。


「どこへ行きたい」

暮れかけの空の下で、義勇さんはわたしにそう聞いた。
どこへ行きたいかと。
その面差しには、強く濃い、覚悟の色があった。
わたしの答えたところがどんなに遠くても、義勇さんはきっと、どこへでも、すきなところへ連れて行ってくれる。そういう決意をしたあとの顔だった。
触れるとひんやりとしていそうな、しずかで、うつくしい顔。
今ならすべてわたしのものにしてしまえる。
ふたりでとつ国に消えてしまいたいと言えば、ちいさな小島で暮らしたいと言えば、ここを捨てて、どこでもいい、どこか遠いところで一緒になりたいのだと言えば、あるいはふたりで死んでしまいたいと言えば、義勇さんはきっと頷いてくれるだろう。

闇が世界ごとわたしたちを閉じ込めようとしている。町にはちらほらとガス燈が灯りはじめる。しかし口にすれば、願えば、わたしはここから出てゆける。たやすく。暗闇から抜け出して、あかるい道を歩くことができる。
義勇さんはじっと黙って、わたしの答えを待っていた。


「……屋形船に乗って、てんぷらをいただいて、上等なお酒を楽しむんです。降りるころにはわたしたちはすっかりいい気分になっていて、でもそこから、今度は電氣ブランデーを飲みに行くんです。そして酔いを醒ますように遠回りをしながらお屋敷へ戻って、明日はすこし遅く起きるんです。起きたらおいしい食事を作って、それからわたしは義勇さんに隊服の上着と羽織を着せてあげる。そうすると、義勇さんはお返しにわたしへも隊服を着せてくれる」


義勇さんはどこか痛むような顔をして、それでも目を細めて、口角をゆるく持ち上げてくれた。
わたしもきっと同じような顔をしているのだと思う。そうやってわたしたちは、やっとの思いで、曖昧にほほえみあった。


きれいごとばかりが頭のなかをぐるぐると駆け巡り、ほんとうのところ、どうしてふたりで蒸発することを選ばなかったのか、自分でもわからなかった。こわかったのかもしれないし、そうでないかもしれない。
もしかすると義勇さんはそんなに深いことなど考えてはいなくって、ただわたしが自分で納得をするために、義勇さんの誘いを断ったのだ、選択肢はあったけれど選ばなかったのだという、都合のいい思い込みをしようとしているだけなのかもしれない。
あるいは、わたしがわがままを言わないと踏んだうえで義勇さんがしかけた、罪悪感を昇華するための便宜上のやり取りだったのかもしれない。
わからないけれど、わからないままでもよかった。
ここで生きていくしかないのだと覚悟を決めなおすための理由としては、どれもじゅうぶんだった。


電氣ブランデーは、とても強烈なお酒だった。
流し込むと喉が焼けたように熱くなって、舐めるようにしてみると、薬草のような、金柑の皮のような、はたまた森のような複雑なかおりと、ほんのすこしの不思議なあまさがふわりと広がった。
バァを出て夜の町に放り出されたわたしたちは、煉瓦造りの洋食屋の陰でくちづけをした。ほんの一瞬のやさしいものだったけれど、わたしたちはふたりとも酔っていたから、くちびるがとろけるように熱かった。

暗闇でも生きていけると思った。
浅草はすてきな町だったけれど、振り返らないで歩いた。