35:朝凪を待つ

「なまえ」

そう言ったのが水柱の冨岡さまであることにしばしのあいだ気付けなかったのは、その声色があまりにもやさしくて、普段のようすとまるで繋がらなかったからだ。
しかし脳の処理が追いつかないだけで、それはたしかに、彼の声であった。

その場から立ち去ることができなかったのは、好奇心や背徳感、そしてもっと直接的な情欲の昂りといった興味や欲望のすべてを、彼の、彼たちの情事に持っていかれてしまったからだ。

「義勇さん、義勇さんだめ」
「足を閉じるな」
「あ、や」
「やめれば満足か」
「ち、ちがうの」
「いい顔だ」
「……すき」

なまえさんはほとんどすすり泣きのような声で、何度も繰り返し彼の名前を呼んだ。
ふたりのあいだに多くの言葉はなく、淫靡に湿った音ばかりが、粛々と響いた。
すこし身を乗り出せば、ふたりのすがたを捉えることができる。

世の中には、男女交際の覗き見を己の生きがいのように感じて繰り返し犯行を重ねる、淫乱の阿呆がいると聞くが、このときばかりは、自分が彼らのよき理解者であったというよりほかなかった。

「義勇さん、もう」

短い悲鳴のような嬌声があって、そのあとずるずると衣擦れの音が響いた。
濡れた吐息が聞こえる。行為はまだ終わらないようだった。
おれは、負傷したおれをこころよく招き入れてくれたやわらかい印象のなまえさんと、無口で冷ややかな印象の冨岡さまの顔を交互に思い浮かべながら、そのひそやかな淫行に懸命に耳をそばだてていた。


おれは、冨岡さまのことを詳しく知る者に会ったことがない。
柱稽古でも屋敷を使用しなかったし、仲間うちには任務でいっしょになった者もいたが、それでも詳しく話し込んだやつなどひとりたりともいなかった。
ご多分に漏れずむずかしい生い立ちをしたひとだと、いつだったかうわさに聞いたことがある。それだけだった。
蝶屋敷からひとりを引き抜いて身のまわりの世話をさせているという話を聞いたこともあったが、その女性が彼のいいひとだと噂するひとはいなかったように思う。
おれたちのなかで、彼と色恋というのはあまりにも結びつかなかったし、そもそも、生活のにおいの一切しないひとだったから、彼に関して、おれたちはなんの想像もできなかったのだ。
その存在はじゅうにぶんに認知はしているものの、あまり話題にのぼらないひとだった。

現に、しくじったおれの助太刀に駆けつけてくれた彼と、おれはほとんど話しもしないままにここまできた。
わからないひとだなあと思ったけれど、看護師がいるから傷が癒えるまで世話をすると請けあってくれて、そこではじめて、気を遣ってくれているらしいと気がついた。
屋敷の玄関扉を開けるとすぐになまえさんがぱたたと軽い足音を立ててやって来て、おれはその瞬間、このふたりがいい仲だということと、彼が実のところ非常に愛情深いひとなのだということをたちまちに理解した。
どうしてかはわからないけれど、ふたりの纏う雰囲気がすべてを物語っている気がしたのだ。


満足したのか罪悪感が勝ったのかはわからないが、こんなことはよくないとようやくこの場を立ち去る決心をしたその刹那だった。
耳元で鴉の羽音が、びゅうびゅうと切れのよい風を伴い、激しく、勢いよく響いた。
驚いたおれは間抜けに腰をついて、硝子戸が続く廊下へ躍り出る。

三羽の鴉が告げたのは、産屋敷邸が鬼舞辻による襲撃に遭ったということだった。
ふたりが出てきたとき、おれはまだ動き出せずにいた。
冨岡さまもの面持ちにも、ひとかけらの焦りが見えた。いつもよりも鋭いまなざしで、おれには一瞥もくれずに駆けていく。
なまえさんは真っ白い裸体に朱鷺色の長襦袢だけを羽織り、両手で冨岡さまの羽織をたいせつそうに抱きながらそのあとを追って行ってしまった。

「あなたは足をやってしまっているから、ここにいてください」

一度振り返って彼女が叫んだ。
一里先まで届きそうな、どこまでも透き通る声だった。

雪駄を履き終えた背中に彼女が羽織を掛ける。


「行ってくる」
「行ってらっしゃい、義勇さん。待っています」


別れを惜しむ間もなく、彼は出ていった。
彼女も、惜しいという色を見せなかった。
衿元を片手だけで押さえてはだしのまましずかにその背中を駆けて追い、腕木門の前に立つと、彼の背中が見えなくなってからもすこしのあいだそのまま、黙ってそこに立ちすくんでいた。
盛冬の冷たい風にやわらかそうな髪の毛を揺らしながら、じっと。

その姿がいじらしくって、せつなくってたまらなくなり「あの」と声をかけたけれど、その先の言葉は見つからなかった。
彼女はゆっくりと顔をこちらへ向けるとほとんど泣きそうな顔で力なく笑った。

「泣いてはだめよね。置いていかれることの苦しさを誰よりも知っているあのひとのほうが、きっとつらいもの」
「……いいんじゃないでしょうか。だって、あのひと、自分では泣けないでしょう」

彼女はやっぱり力なく笑った。
屋敷へ戻ると、すぐに数名の看護師がやって来て、入れ替わりで彼女はここを飛び出していった。
彼女を本丸近くへやるために有志で駆けつけたらしい。

今夜を境に、ありとあらゆるものが変わってしまうという確信を、誰もが胸に抱いていた。
おれは今、前線に行かれないことの不甲斐なさで、苦しかった。
残されるものと残していくもの、どちらがよりつらいのか。それは誰にもはかれないことだったけれど、そんな不毛なことなど考えなくともいい世の中が一刻も早く訪れればいいと思った。彼女がそんなことでかなしまなくてもいい世の中が、と。情けないことに他力本願の極みとなってしまったけれど、強く。

洋靴の紐を結びながら、彼女は泣いていた。
涙は一度も拭わなかった。左首のちいさな内出血の痕が、牡丹の花びらのようできれいだった。