8:染みわたるは瑠璃の色

やさしいにおいがする。こころが安らぐあたたかなにおい。そして心地のよいぬくもり。
重たいまぶたを開けても視界は暗いままだった。すこし身動ぐと乾いた衣擦れの音がしゅるしゅると響いた。
目の前の暗闇にうずもれるように顔を押しつける。ほどよくやわらかい、布と肉の感触。そして冨岡さんのにおいだ。

「起きたか」
「と、冨岡さん」

しがみついてひとしきり泣いたあと、どうやらわたしは眠ってしまったようだった。
どういう経緯で冨岡さんのお膝を枕にしたのかはまったくわからなくて、自分のはしたなさに背筋が凍る。
慌てて起き上がろうとしたものの、肩に乗せられた手を払いのけるわけにもいかなくて、上半身を起こしかけた中途半端な体勢になってしまう。

「安心しろ、なにもしていない」
「わ、わたしは、なにか……」
「お前もなにもしていない。急に寝た」

起き上がって冨岡さんの前に座り直すと、冨岡さんは今更、というように、すこしだけ顔を綻ばせた。

「もう遅い。今日は泊まっていけ」


二階建ての長屋には客室が全部で五部屋あったが、部屋はすべて満室であった。
寝る支度を済ませ、冨岡さんのいる部屋に戻る。
ふたりぶんの布団が狭い部屋のまんなかに堂々と敷かれていた。
冨岡さんはまた文机に向かっている。
わたしを一瞥すると布団に視線を移し、すきに使え、と一言呟いた。

わたしがいるから冨岡さんは眠らないつもりなのだろうか。
そう思うと、申し訳なさで睡魔がどんどんと遠ざかっていく。
冨岡さんが筆を滑らせるさらさらという音と、たまに姿勢を正す衣擦れの音だけが聞こえる。

「眠れないか」

なかなか寝つけずにいるわたしの様子に気がつくと、冨岡さんはカンテラの灯りを消してくれた。

「すみません……。なんだか緊張して」
「変な気は起こさない。安心していい」
「いえ、そういうことではないのですが、ただ、冨岡さん、わたしのせいで眠らないつもりなのかと思うと」

それきり、冨岡さんはしばらく言葉を発さなかった。
窓からこぼれ落ちるほのあかるい月のひかりを頼りに文を書き終えると、一度部屋から出ていった。
見慣れない天井を見つめて、わたしはことの経緯をゆっくりと思い返してみる。
明日も見えないというほどに混乱していたわたしのこころは、水を打ったように、透明で、しずかだった。

しばらくすると、寝間着姿の冨岡さんが部屋へと戻ってくる。
わたしに気を遣ってか、ぴったりと並んだ布団をできる限り離すと、こちらに背を向けるかたちでしずかに横になった。

「冨岡さん」
「どうした」

一呼吸おいて返ってくるやさしい声。
こころにじんわりと染みいるような低くてあまい音に、心臓がせつなくうずくのを感じた。

「お、おやすみなさい」

とくとくと鼓動が早くなっていく。
深入りしてはいけない、とこころが警鈴を鳴らしている。
あわせてくださってありがとうございますとかなんだとか、話しかけようと思っていた様々な言葉をすべて飲み込んで頭の先まで布団をかぶると、冨岡さんのにおいが肺いっぱいに流れ込んできた。
ちいさく唸ったわたしの声は、分厚い布と綿のなかに吸い込まれて消えていった。