9:よりそう小舟

朝起きると、冨岡さんの姿は見えなかった。
隣に敷いてあった布団はきれいに畳まれていて、その上に置かれた寝間着もまた、きっちりと几帳面に畳まれていた。
冨岡さんの隊服は文机の横に置かれたままになっている。

ここへ滞在している理由は師範学校への潜入の指令のためと聞いていた。
学生服を着ていったのだろうか。
それにしても、冨岡さんが準備をするなかのんきにすやすやと寝ていたなんて、昨日に引き続き、自分はなんて無作法者なのだろう。
恥ずかしさにいたたまれなくなり勢いよく上半身を起こしたとき、わたしの肩に引っかかってずるりと落ちたのは冨岡さんの羽織だった。

おねえさんと錆兎さんの思いと、冨岡さんのそのふたりへの思いを乗せた、たいせつな羽織。
昨日わたしが泣いていたときにも、冨岡さんはわたしに羽織をかけてくれた。
無骨に見える冨岡さんの不器用な慈愛を感じる。
冨岡さんはどんな思いで、たいせつな宝物を他人のわたしに預けたのだろうか。
そう思うと、こみ上げる気持ちに胸が焦がれてやまなかった。


一階へ下りて家主のおばあさまにご挨拶をする。
なにか手伝えることはないかと相談すると、食事の支度を任せていただけることになった。

隊服でなく普通の着物に袖を通し、むかしながらの商家が立ち並ぶのどかな町で買い物をして、ひとの待つ家へ帰り、たくさんのひとのために食事を作る。
まるで、普通のありふれた、しあわせなおんなのこみたいだと思った。
途端にどうっと押し寄せてきた罪悪感がわたしのこころをたちまちに飲み込んでしまう。
隊士たちもおばあさまもわたしの食事をおいしいととても喜んでくれたけれど、こころのなかはざわざわと波立ったままだった。
感謝などされる立場ではない。
これからわたしは、ここにいる隊士たちに責任を押しつけて、のうのうと能天気に暮らしていくのだ。
昨日は気持ちに折り合いをつけられたなどと思っていたのに、やはりそう簡単なことではなくて、昨日いただいたどんな言葉を思い出しても、波立つ気持ちを抑えることはできなかった。
冨岡さんに会いたいと思ってしまう。
冨岡さんへの気持ちを依存にすり替えたくはなくて、さらに胸が苦しくなる。


みんなが寝静まっても、冨岡さんは帰ってこなかった。
初夏のほどよく冷たい夜風にあたりたくて窓を開けると、鴉が一羽窓枠にとまった。冨岡さんだ。
急いで階段を降りて外へ飛び出す。
ずっと遠くに冨岡さんの姿が見えた。煌々とかがやく月を背負ったその姿がとてもうつくしくて、わたしは一瞬、呼吸をするのを忘れてしまう。

「冨岡さん!」

駆け寄って距離を詰めていくうちに、脇腹のあたりがぬらぬらと黒く光っていることに気がついた。

「冨岡さん、だいじょうぶですか、お怪我が」
「返り血だ。問題ない」

半信半疑で見つめるわたしの前で、冨岡さんはマントと詰襟の上着をめくり、シャツに傷がついていないことを見せてくれる。
錆色に汚れた腰元にそっと触れる。乾いたシャツの固い感触。冨岡さんの熱を感じる。手の甲に触れた上着はまだしっとりと濡れていた。

「よかった。おかえりなさい」

そのままゆるく抱きしめると、冨岡さんは応えるように片手を腰にやさしく添えてくれた。

鱗滝さんから冨岡さんの好物だと聞いて鮭大根を作ったと伝えると、冨岡さんはわずかに喜んでくれたように見えた。
上背のすらっと高い冨岡さんと並ぶと、台所はすこし狭く感じた。

わたしが料理をよそっている横で、冨岡さんはちいさな包をといている。
ふわりとかおってきたあまいにおいの元を確かめるより先に、わたしの顎先を冨岡さんの指が捕らえた。
半ば強引に冨岡さんのほうを見上げるかたちになってしまう。視線が絡む。
急な行動に戸惑うわたしの顔はきっと大分まぬけで、恥ずかしさに耳の端まで赤くなっていくのがわかる。
慌てるわたしの反応を気にもとめない様子で、冨岡さんはわたしの口になにかふわふわとしたものを押し込んだ。
西洋菓子特有のこっくりとしたあまさが口いっぱいに広がっていく。

「カステラだ。もらった」
「おいしいです……」
「昨日もらったミルクもある」
「わあ!ミルクホールでいただくみたいに温めましょう」

深夜の台所で他愛もない会話を交わしながら、わたしたちはこののどかな町にふさわしい、のんびりとしたおだやかなひとときを過ごした。
冨岡さんは瞳でものを語るひとだから、わたしはずうっと彼の瞳を見つめ続けていた。
なんとなしに目が合う瞬間が、わたしはたまらなくうれしかった。

このひとに死んでほしくないと強く思う。
もう悲しませないように、血を流したりしなくてすむように、どこかあたたかなところに囲っておきたい。
わたしに力があればよかった。たいせつなものを守り切るだけの力が。
そう思うと、また胃がきりきりと傷む。
せめて戦地に立ちたいという気持ちと、現場を退かなくてはならない現状。たいせつなひとたちには鬼と離れて平和に暮らしてほしいと願う気持ち。
すべてがちぐはぐでままならなくて、たいせつに思うこともいとしく思うこともなにひとつ許されていない不自由さのなか、それでも生きていかなければならないのはとてもつらかった。