14:無限鏡

時透先輩の部屋は、時透先輩のかおりがした。
あたりまえのことだけれども、それは想像していたよりもわたしのこころをざわつかせた。
脳はかおりに逆らえないと聞く。ひとの記憶にいちばん色濃く残ってしまうのはかおりなのだと。
一生忘れられなくなってしまったらどうしよう。
そう考えるとおそろしかったし、なにか変な気を起こしてしまう前に帰らなくてはと、来て早々、わたしの頭のなかはできるだけ早く退散するための言い訳でいっぱいだった。

先輩はいやに上機嫌だった。
ジュースのようにあまいお酒に、目の前にはわたしの作ったオムライスをおいしそうに頬張る先輩。わたしだって、うれしくないはずはなかった。
しかしどうにも落ち着かないのは、ここはどこへ行ってもどこを向いても先輩の濃いかおりがして、まるで先輩に抱きしめられているように感じてしまうからだ。
強く抱きすくめられているかのようで、息苦しくて、恥ずかしい。

「仕事は楽しいよ。皆はユニークだから一緒にいて飽きないし、なにより社長の役に立てる」
「皆さん、ほんとうに社長のことがすきなんですね」
「うん。自分のこどもみたいにかわいがってくれたひと。だいすきなんだ」

社長のことを話すとき、先輩はよく笑う。
いつものニヒルさをすこしも感じさせない、あどけなさのかおる、屈託のない笑みだ。
そんな先輩の笑顔や他愛もない会話、とにかく一挙一動のすべてに胸がとくとくと高鳴ってしかたがない。
どこを見ればよいのか、どんな姿勢でどんな顔をしたらよいのかもわからなくて、手も足も使い方を忘れてしまったみたいにわたしの意思とは関係なく、もじもじと動いてしまう。

皿洗いが終わってしまえばいよいよすることも触るものもなくなってしまい、わたしはアルミ缶についた水滴をひたすらに指で掬ったりなぞったりしながら、先輩の質問を受け取ってはただぎこちなく返すだけというのを繰り返した。
空になってしまったアルミ缶は、強めに握ると、ぺこんとまぬけな音を立てる。
そのたびに、先輩はわたしの落ち着きのない指先を視界の端で捉える。
悪いことをしているわけではないのにどきりとして手が震える。

「仕事は大変じゃないの?」
「はい、働きやすいところだと思います」
「そう。それならよかった」
「それに、時透先輩たちに会って、社長とのエピソードを聞いて、ますますいいところに入れたんだなあって」
「無一郎」
「え」

気がつけば先輩の顔がわたしのすぐ近くにあった。
プレナイトのような瞳。上等なすりガラスのような不思議な虹彩。
見開いた目をどうすることもできないまま、その近い距離でわたしは先輩を見つめた。
揺れる視界に、ただ先輩だけがいる。

「無一郎でいいよ」

泣いてしまいたくなるほどの高ぶりを押さえたくて咄嗟に後ずさりをしかけたわたしの腕を、先輩は素早く捕らえた。
バランスを崩して一瞬目を瞑る。
次にわたしの視界に移ったのは、先輩とリビングの天井だった。
黒からうつくしいグラデーションを描く薄浅葱色。
その隙間から淡いひかりがこぼれてわたしのつまらない肌に落ちてくる。
わたしはもう気を失ってしまうのではないかというほど頭が真っ白だというのに、先輩は笑うでも焦るでもなく、やや冷ややかとも取れる無表情で、じっとこちらを見下ろしていた。

無一郎さん。
やっとの思いでちいさく呟いたわたしの震えた声だけが、しずかな空間に情けなく響いた。
聞こえたのか聞こえていないのか、先輩は顔色ひとつ変えずに、わたしを見下ろしたままでいた。