15:インフェクション

「明日も仕事でしょ。もう遅いから帰りなよ」

結局あの後先輩が言ったのは、そんな拍子抜けしてしまうような言葉だった。
鞄を持たされ半ば追い出されるようにして先輩の部屋を後にしたわたしは、なにが起こったのかどういうこころづもりなのか、全くわけがわからないまま、玄関ドアの前でただ呆然としていた。ひどい目眩がした。


いよいよ本格的に、もうしばらく会いたくないという気持ちになった。
こころが持たない。これは恋愛のかたちとしては不健全な部類であると思う。否、わたしが未熟なだけかもしれないけれど。とにかく、やはり、わたしは恋愛などができる器ではないのだ。
そんな余白はない。こころの縛られかた、求めかたの、適度な加減がわからない。
今までの自分は一体どんなふうに恋愛をしてきたのだろうか。
こんな具合に自分をだめにしてしまう恋愛など、はじめてだ。わたしになにが起こっているのだろう。自分が自分でなくなっていくのがおそろしい。


不可解な土曜が終わり、日曜が過ぎて、月曜になった。
こんなときに限って先輩はわたしの前に現れる。
わかってはいた。
会いたいとき、会いたくないとき、わたしの頭のなかに先輩が思い浮かんだとき、先輩は狙ったようにわたしの前へ現れる。
そうして、やあ、なんていつも通りの笑顔で、わたしの腕を取った腕を低い位置でひらりと振る。わたしを組み敷いたときの瞳でわたしを見つめる。
あのときと地続きの世界に生きているということを思い知らされて、鼓動が早くなる。

「あ、あの」
「なに」
「気にしてませんから」

咄嗟に出たのはそんなかわいげのない言葉だった。
気にしていないだなんて、そもそも先輩にとってはわたしを押し倒したことなどはほんの些細なことにすぎないし、いつだってわたしの感情も事情も無視なのだから、そんなことをわざわざ宣言するなど、まったくもって必要のないことだった。

しかし言ってしまったことはもう取り消せなくて、引っ込みがつかなくなってしまったわたしは半ばやけくそで言葉を繋げた。

「酔ってやったことですから、わたし、気にしてませんから」
「なにそれ」

これではまるでセックスでもしてしまったかのような言い草で、口にしてしまってからわたしはまた、あっと後悔した。
そしてなにより、これではまるで、気にしているみたいではないか、と。気になって気になって仕方がないとあえて伝えているみたいではないかと。
先輩は怪訝そうに小首を傾げていたけれど、やがて満足げに口角を吊り上げた。

「気にしてよ」
「え」
「気になって気になって、夜も眠れないくらい」

そう言ってわたしの横をするりとすり抜けて行ってしまう先輩を目で追うことはできなくて、すこしでも近くにいたくなくて、逃げ去るようにわたしは反対の方向へとちいさく駆けた。
かなしさだとか怒りだとか期待だとか、こころを支配している感情の名前がわからなくて、なにもかもが意味不明で、ただただ締め上げられた心臓が痛くてたまらなくて、それは涙が滲むほどで、溢れていくかたちあるもの、かたちなきもの、様々なもののコントロールがまるでできないまま、わたしは駆けた。
階段を降りる途中で出会ったのは玄弥くんだった。
わたしはこれ以上自分からなにかが奪われないように、無駄なことを吐き出さないように、手の甲をくちびるに押しつけて、分厚い涙の膜の張る瞳を揺らし、肩で息をしていた。

玄弥くんはどこか怪我でもしたような苦い顔で駆け寄ってくると、わたしを強く抱きしめる。
混乱のさなかに起こったことで、もう、なにがなんだかわからなかった。
抱き返すこともできず、突き放すこともできず、ただその奇妙に固い腕に、じっと、抱かれていた。
白檀のようなかおりがした。