16:マリオネット・ブルー

ふたりとはあれから、すれ違うことはあれど、ろくに目も合わせていない。
時透先輩の言葉の真意も玄弥くんのかたく熱っぽい抱擁の意味もわからないまま、何日もが過ぎた。

時間は妙薬だ。
わたしのパニックもだんだんと収まり、一抹の混乱と、ひどい倦怠感だけが残された。
先輩の思惑に乗ってはいけない。
玄弥くんへはもうすこし落ち着いたところでお礼をする。
そうして、つまらないけれど平和だった日常を取り戻すための準備をする。
あとはそれを淡々とこなすだけだ。死んでいるみたいに。


先輩に出会ってからの日々は、宝石を拾い集めるみたいだった。
先輩に出会ってからのわたしは、遠いむかしのきらきらひかる思い出を拾って歩いていて、そうしてたいせつな感情を取り戻すたびに、褪せた世界はじわじわと鮮やかさを取り戻していった。
化粧品だって増えたし、髪型を変えたりとびきりおしゃれな靴を買ったりした。かわいくなったと言われたりもした。
新しい靴で、先輩に会いに行く想像をした。

なにものかに目的もなく生かされているみたいに、ただ働いてただ眠りただ食事を摂るだけの色のない日々に漂っていたころが、もう随分も前のことのように感じる。


携帯電話が鳴る。
時透先輩だ。
このまま無視を続ければ、それがきっといちばんしあわせだ。
先輩の声もにおいもすべて忘れて、こんなおかしな気持ちも抑えのきかない思いも薄れて消えてしまうまでじっと黙っていればきっと、疲弊しきったわたしに訪れる細やかなしあわせのすべては、奇跡のようにあたたかく感じられるに違いない。
わたしはわたしというつまらないものしか持っていなかったのに、わたしを失ってしまったら、一体なにが残るというのだろう。
つまらない、やわい肉塊だけである。

「……時透先輩」
「無一郎」
「と、時透さん」
「うん、まあいいや。みょうじさん、暇だったらこれからご飯行こうよ」

それでも、すべて失くしてしまうのだとしても、先輩を追ってしまいたくなるのはどうしてなのだろう。




夜になった。
わたしはまた時透さんを見上げていた。
食事のあとに家に誘われたことにも驚かなかった。それはこれがきっと、わたしの想定していたシチュエーションのひとつで、こころのどこかで、そうなればいいのにと願っていたからなのだと思う。
こうなることを、わたしは期待していたのだ、きっと。

リモコンを渡そうとした手を掴まれて、濡れた視線が絡まった。
時透さんのプレナイト色の瞳がわたしを映していて、そのなかで揺れるわたしの瞳のなかにも、時透さんがいた。どこまでもぐるぐると続いていく世界には、わたしたちのふたり以外には誰ひとり存在しなかった。

もう片方の手のひらで髪の毛を掻きあげられて、人形のように白く整った顔が近づいてくる。耳たぶにあまい感触があった。
熱い吐息と濡れた舌の立てる淫靡な音が、それだけでわたしを愉楽の果てへと連れて行ってしまう。
肌が合わさっているのはほんの一部だけだというのに、身体じゅうが痺れあがり、呼吸が浅くなる。
時透さん、時透さん。
泣き出したくなるほどのせつない気持ちが鼻の奥をずんと痛くする。どこにもやれなくて、つま先に力を入れた。
ゆっくりと押し倒されて、時透さんの手のひらが内腿を滑っていく。
わたしの弱いところを、星図をなぞるみたいに丁寧にかすめていく。

「……時透さん」
「いいの?」
「うん」

ほんとうは手を伸ばしたくてたまらなくて、その頬を包んでくちびるを重ねてしまいたくて
、そうでないとおかしくなってしまいそうで、溢れかえる「すき」を触れあう身体でわけあわないと死んでしまいそうで、でも、それじゃあだめなのだ。崩れてしまうから。
与えられるすべてを素直に受け入れるだけのわたしでないとだめなの。
そうして都合のいい子でいなければすべてが終わってしまう。
彼の口から遊びだったんだと聞くまで、可能性を捨てられないの。だってすきなの。わたしはどうしようもなく、時透さんがすきなのだ。
もしこれが彼が本気になってくれるための通り道であるならば、その可能性を拭いきれないのならば、わたしはおとなしく待ちたい。
ほんとうを知るまで、もう、なんだっていい。なんだって。

時透さんの指がいたずらに動く。
こころをばらばらと弄る。わたしの甲高い声が響く。
冷静になる隙もなく与えられる快感は都合がよかった。