17:正しい人生のつくりかた

あれきりではなかった。
わたしたちは何度も体を交えた。わたしの身体は時透さんの熱をすっかり覚えてしまった。そしてもう、きっと、忘れることはできない。
こちらから求めることはなかったけれど、行為の途中はすこし欲張りでも許される気がしたから、わたしは何度も繰り返し、時透さんの名前を呼んだ。
ちょうだいの代わりに、何度も何度も呼んだ。
時透さんもたくさんわたしの名前を呼んでくれたけれど、キスだけは一度もしてくれなかった。たったの一度も。
合鍵をもらったけれど、呼ばれたとき以外に行ったことはなかった。

捨てることも捨てられることもこわいから、あわよくば半歩でも前に進みたいから、機嫌を損ねぬよう、彼の思うように動くことだけに努めて、ついには情事だけを重ねるようになった。
これは前進でない。まったくの後退である。
しかし、それでもよかった。まだ繋がっているから。ばかでも、みっともなくても、すきだから。
調子づけられて、まんまと落ちてしまったのだから、思惑もなにもかも、気がついてしまったところでもう引き下がることなどできないから、このまま転がっていくしかないのだ。どこか暗いところへ行き当たって、焼かれるまで。

「遅くなりそうだから先に入ってて」と連絡が来て、わたしははじめて彼のいない彼の部屋へあがった。
鍵を開けるのには、後ろめたいことをしているような気持ち悪さがあった。
見覚えのない靴が一束きれいに揃って置かれていて、見えない足跡を辿るように目線をやった先には、ひとりの男性が立っていた。
長い黒髪をポニーテールに結っていた。毛先だけがきれいな薄浅黄色だった。

「あんた誰」
「……あ、いえ、ええと」
「彼女?」
「いえ、違います……」
「なにそれ、おかしいよ」
「え」
「名乗れなくて彼女でもないくせに鍵なんか持ってて勝手に入ってきて」

おかしいよ。
そう言った彼は、時透さんによく似ていた。面立ちもしぐさも話し方も。目線の使い方のみがすこし違っていた。
的を射た発言に、返す言葉が見つからなかった。おかしいよ。

正しくないことはわかっていた。それでも間違いだということからは目を背けたかった。
これもひとつのかたちだと、ある意味でバランスが取れていてむしろちょうどよいくらいであるかもしれないと、そんなことさえ思っていた。
しかしそうではない。おかしい。おかしいのだ。

彼はうつくしかった。
薄いくちびるは繊細な花びらのようだったし、手足がすらりと長い。毛先まで手入れの行き届いた髪の毛は、彼のほんのささいな動きにもあわせてさらりと揺れた。
うつくしいひととして、正しいかたちをしていると思った。
なにをとったって、わたしが彼よりも正しいことなどひとつもないのだと思った。そのくらい、隙のない出で立ち、淀みのない言葉だった。
この過ちを他人から指摘されるのははじめてだった。おそろしかった。


「どうしているの?勝手に入らないでくれるっていつも言ってあるでしょ」

急に開いたドアに驚いて振り返れば、呆れ顔の時透さんがいた。
泣き出しそうなわたしの顔を見て、やさしく頭を撫でてくれる。

「ひとの部屋に勝手にあがって勝手にくつろいだあげく、ぼくの大事な彼女をいじめ倒してたわけだ。兄さんの悪趣味には呆れるよ」

「彼女なの?その子、そうは言わなかったから。お前のストーカーかと思って」

「どれだけ怪しげに入ってきたのさ」

時透さんとそっくりな彼、有一郎さんは、時透さんの双子の兄ということだった。
ふたりは仲がいいようで、そのあとはわたしをよそに、会話がどんどんと流れていった。

有一郎さんはデパ地下でいくつか惣菜を買ってきたようで、キッチンへ行くと勝手よく適当な食器を探し当て、チキンやサラダをてきぱきと大皿へ並べていった。
この家のキッチンに、わたしよりも馴染んでいると思った。

「きみはさ、生きていくためにもうちょっと器用になったほうがいいよ」

わたしとて、すきで不器用をやっているわけではない。
器用になれるものなら今すぐそうしたい。この生きにくさを解消する魔法があるのなら、いくらか積んででも、今すぐに教えてもらいたかった。
近ごろでいちばん、苦い気持ちだった。目尻に涙が滲むのがわかった。
時透さんのその言葉は、わたしの心臓のどまんなかに刺さったまま、もう一生抜けない気がした。