3:住めば都の四畳半

せっかくの土日は、沈んだ気持ちのままあっという間にすぎてしまった。
わたしは無意識のうちに、時透先輩に目をつけられるようなまずいことをしてしまったのだろうか。
関わりなんてまるでなかったはずで、それこそ、足元に転がしてしまったボールペンを拾ってもらったというものの数十秒の出来事以外では、ささいな会話さえ交わしたことがないはずだ。
わたしが先輩を知っているのは彼が役職者だからであって、彼はわたしの名前すらきっと知らない。
絡まれた上に挑発されるようないわれなど、どこをあらったって存在しないのだ。

金曜の出来事を思い出すたびに、あのときの焦りや不安、そして組み敷いてしまった時透先輩のおおきな瞳と透き通る白い肌に思わず感じた心臓の高鳴りがたちまちによみがえり、めまいがしてきてしまう。
日常がつまらないことは、きっとしあわせなことだったのだ。
考えることがひとつ増えるだけで、わたしの脳みそはキャパシティ・オーバーの警鐘を鳴らしてしまう。


いつもよりも憂鬱な今回の月曜は、休憩時間を迎えるまでのあいだが二倍にも三倍にも感じられた。
おおきく伸びをしたわたしの右腕から、肌のぶつかる乾いた音が鳴る。

「急に手を上げたら危ないでしょ」

振り向くよりも先に声が降ってきた。オフィスチェアのおおきな背もたれがなにかにぶつかって押し返される。
わたしの手首を掴むその声の主、時透先輩は、デスクの上にちいさな手提げのペーパーバックを置くと、そのまま踵を返し立ち去ろうとしてしまう。

「あ、あの」
「あげる」
「え」
「だから、みょうじさんにあげるって言ってるの」
「…あ、名前」
「キャンドルなんだけど、いらない?」

時透先輩はわたしの返答などまるで聞く気がないといった素振りで、そのまま開放されている非常階段のほうへ足早に歩いて行った。
黒シャツの上から羽織りものをする上長が多いなか、時透先輩はブラウスのようにたっぷりとしたシルエットの黒いシャツと、ラインのきれいなワイドパンツを合わせている。
長い髪が揺れるのと一緒に、裾や袖が風を含んでふわふわと翻るのがとてもうつくしかった。


上だけがかすかにブルーがかった透明のジェルキャンドルは五センチほどと背が低く、二重になったガラスの容器の外側には白と紫のカスミソウ、そして底にはすこしくすんだマスタードイエローの銀杏の葉がかわいらしく収まっている。
プリザーブド加工の施された銀杏は細かい葉脈が透けて見えて、容器ごとひかりに照らすと、まるで秋口の透明な水底に沈んで空を見上げているような気分になった。

嫌われているのではなさそうだけれど、それでもやはり、平穏な日常に落ちてきた奇妙なエッセンスを歓迎する気にはなれなかった。
普段わたしたちのフロアには来ない時透先輩の挙動は、数少ない女子たちから終始監視の目を向けられていて、わたしはきっとこの後、彼女たちからの質問の嵐をうまくいなしてやり過ごさなければならない。

これ以上どうよくなるのかの想像もつかない、つまらない日々のクオリティをなんとか維持したいと思うのは、今持っている数すくない宝物をひとつも失いたくないからである。
よくなることを望まないから、悪いようにはしないでほしい。神さまと取引をするような気持ちで、わたしはいつもそう願っている。
それがいちばん、安心なのだ。おとなになると、自分を知ってもらうことも、傷つくことも、しあわせを捕りに行くことも、段々とすべてが億劫になっていく。そういうものなのだ。