19:無限回廊のとちゅうに

時透さんと有一郎さん。
何件もの着信履歴のなかに、ひとつだけ、玄弥くんの名前があった。
なにかに縋りたい気分だったのだと思う。
わかりやすくやさしい玄弥くんは、今のシリアスな気持ちをきっとすばやく正してくれる。
わたしは玄弥くんのやさしさを搾取しようとしたのだ。これは善意の悪用だ。
コールボタンを押した瞬間にはっと思いなおしたけれど、玄弥くんの応答のほうが、わたしが電話を切るよりも早かった。がさがさという風や肌のマイクにあたる音が耳に刺さった。

玄弥くんがわたしの名前を呼んでいる。
なまえ、なまえ。
玄弥くんの声はまっすぐだ。気持ちがすうっとしずかになっていく。
まっすぐで、誠実な響き。聞いていると玄弥くんの今の表情や気持ちなんかが手に取るようにわかる。時透さんの弄ぶような響きとは全然違う。
玄弥くんの誠実さは汚いものを洗い流してくれるようで、わたしはなんとか適当な相槌を打ちながら、彼の低い声にじっと耳を澄ませた。
確信に触れないようにと丁寧に結ばれた会話のそこらじゅうに、玄弥くんのやさしさが散りばめられている。

わたしは毛先を指先でいじりながら、玄弥くんのやさしい問いかけへ「うん」とか「ううん」とだけ返した。乾いた涙が、まなじりがつっぱっている。

電話のむこうとわたしの部屋のなかに同じチャイムの音が響いたのは、ちょうど一時間ほど経ったころだろうか。

「玄弥くん?」
「開けてもらえるか」
「うん、すこし待っていて、今行くから」

一枚羽織りものをして、玄関へと向かう。はだしのまま片足をたたきに下ろしてサムターンをまわした。

開いたドアから晩夏のぬるく乾いた風が吹きこんでくる。
伸びてきたたくましい腕が、無防備だったわたしをいとも簡単に抱き寄せてしまう。
バランスを崩したわたしの身体がおおきく揺れることはなかった。玄弥くんの広くて厚い胸は、わたしのちいさな身体をしっかりとした確かな強さで支えていた。

時透さんのやわらかい抱擁とは、色もかおりもかたさも、すべてが違っていた。
時透さんよりも強い力、やさしいこころで抱いてくれているのに、わたしのこころがすこしも満たされてくれないのはなぜなのだろう。どうして彼だけが、あんなにもわたしを、わたしじゅうを、得体のしれない不思議なもので満たしてしまうのだろうか。

「時透さんか?」
「……うん」
「ごめん、おれのせいだ」
「ううん、違うよ」
「違わない」

玄弥くんはわたしを抱く腕に一度ぐっと力を入れると、かぶりを振りながら身体を離す。わたしたちの隙間にはたちまちにぬるい空気がたちこめる。

「ごめん、おれ、時透さんたちに相談してたんだ。お前のこと、ずっと」

玄弥くんは苦い顔でそう言って、わたしの肩を強く押し返した。
聞きたいことがたくさんあったけれど、聞いてしまえば都合のよいところだけを飲み込むなんていう傲慢なことはできなくなってしまう。臆病で狭量なわたしは、すべてを受け止められるという自信も持ち合わせてはいない。

きっと急いで駆けつけてくれて、言いたくなかったことを言ってくれた玄弥くん。
あの日階段で、泣いているわたしを抱きしめてくれた玄弥くん。

玄弥くんにかけるための適当な言葉が見つからなくて、わたしはただ瞳を揺らしていた。
そして大変不誠実なことに、今わたしの頭のほとんどを支配しているのは、玄弥とかどう、と時透さんが呟いた、あの日の夜のことだった。

「余計なこと言ってごめん。困らせた。今日は帰る」

待ってと引き留めることはできなかった。
追いかけることもできないし、そんなことはしてはいけないのだと思った。
この暗い溝を掘り続けた先に、わたしの探していた答えがあるというのだろうか。そうであるならば、わたしは、一体どうすればよいのだろう。どうするのが、いちばん誠実で、正しい行いなのだろう。