20:すきにしていいよ

目の前で行われていることが、およそ現実に起きていることであると理解するのには、すこしの時間が要った。
勢いよく立ち上がったわたしにその場にいる全員の視線が集まって、空気が凍りつく。その冷たさで、はっと我に帰ったのだ。
そしてそのまま、逃げるように宴会の席を後にした。
どさくさにまぎれて、同僚のくちびるが、ふたたび時透さんのくちびるをついばむのが見えた。
時透さんが視線の端でわたしを捉えているのがわかった。


合同コンパというなんとも俗っぽい集まりに行くのは、わたしにとって、大分気の引けることだった。
同僚の女子がわたしをだしにしてやっとの思いで取り付けたというその集まりにわたしが参加しないというのはどうにもまずく、あってはならないことのようであった。
参加することを渋々請け合ってしまったのは彼女の熱意に負けたのと、時透さんにこころをとらわれたままの現状と決別したかったからだ。彼女の狙いは時透さんだった。


「派手に酔ってんな」

「……どうやらそうみたいです」

「ひとごとかよ」

「ひとごとだったらよかったんですけれど。こんなの、みっともないですし」

「うまくいってねェの?」

「なんのことだかわかりませんが、なんであれ、答えはイエスです。わたしの人生でうまくいったことなんて、ひとつだってないんだもの。笑っちゃう」

わたしは持ってきた"はずれの割り箸"をゆらゆらと揺らした。先っぽが赤のサインペンで塗られている、はずれの棒きれだ。よくみると、三、と数字が振ってある。

王様ゲームなどというくだらないゲームで時透さんのキスを手に入れた彼女は、それが偶然のことであるとしても、時透さんに気持ちがないとしても、きっと満足なのだろう。そして今、世界でいちばん、幸福な気持ちでいるのだろう。
くだらない棒きれが導いたくちづけ。
濃いリップにラッピングされた彼女のふくよかなくちびるが彼のくちびるをついばんだとき、ピンク色のラメのしずくが飛び散りそうに見えた。瑞々しい果実のようなくちびる。
彼の薄い肉にそっと吸いついて、波打っていた。

「まア、世の中、運とタイミングってやつだ」

宇髄先輩はわたしの頭をわしゃりと撫でた手のひらをそのまま顎まで滑らせると、その硬く節ばった指先でわたしの乾いたくちびるを荒くなぞった。
その一連の動きのあまりにも無駄のない様子に圧倒されて、わたしはなされるがままに、彼のくちづけを受け止めるほかなかった。
キスというよりは、捕食されているかのようだった。
アルコールのまわりすぎた身体を、おおきな胸板に引き寄せられる。わたしはブリッジをするみたいにおおきく、おおげさにのけぞりながら、彼の熱いくちびるから逃れる術をなんとなくぼんやりと考えていた。
どことなく、ひとごとのようだった。すべてがどうでもよいという気がした。

「なにやっちゃってるの」

冷え切った声だった。
心臓がごとりとおおきな音を立てて揺れ動く。
離れたくちびるを濡らしたまま、宇髄先輩はわたしの腰を背中側から抱いた。わたしのくちびるも、きっとぬめぬめと光っているに違いなかった。
時透さんの咎めるような視線が心臓を貫いて、鋭く痛む。

「返してください、だろ」
「笑えない」
「どいつのせいだよ」
「他人には関係ないよね」

突き返すように背中を押されてバランスを崩した身体を、時透さんが受け止めてくれる。
でもやさしくなくて、抱き上げてくれた腕もまなざしも全然やさしくなくって、あからさまに不機嫌なその態度に、わたしのこころはまたかき乱されてしまう。
関係ない。
わたしが時透さんとどうなろうと宇髄先輩には関係がないけれど、わたしがだれとキスをしようとも、それはだれにも、時透さんにだって関係がないはずだ。時透さんがだれとキスをしようとも、わたしには咎められないように。

「お互い災難だったねって、それでいいじゃないですか」

ねえ、先輩、と呟いた声は、彼のシャツのなかに吸い込まれていった。

「うちの会社、社内恋愛禁止だぜ」

わたしたちの背中に、宇髄先輩が気怠げな声を投げかける。
わたしの身体は時透さんに横抱きにされたままだったから、タクシーへはふたりで乗ることになった。
短く呟かれた住所は、彼のマンションのもののみだった。