21:さよならのかわり

通り過ぎてゆくネオンの残灯に透き通るような白い頬を晒しながら、時透さんは不機嫌そうに黙り込んでいた。
わたしのせいで怒っているのだとでも言いたげに。
しかし、罪悪感はなかった。
わたしに時透さんを縛る権利がないように、時透さんにだってわたしを縛る権利はないのだから、謝る必要もない。悪いと思う義理もない。


タクシーのドアが開かれたけれど、降りる気なんてなかった。このままわたしの家まで出してもらおうと口を開きかけたとき、伸びてきた長い腕に強引に引きずり出された。わたしは慌てて座席に置いていた携帯電話を指先で手繰り寄せて拾い上げて彼を睨み、そして、こぽりと湧いてでてきたちいさな罪悪感で、目を逸らした。

「きみって案外強情だよね」

手首を掴む力はおそろしいほど強かったのに、わたしを抱き上げる腕はとてもやさしい。だからずるい。時透さんはずるい。
つい口をついてでそうになってしまったごめんなさいという謝罪をこころのなかに押し返すように、彼の胸に顔を埋めた。
こどもみたいにだっこをされながら、エレベーターの浮遊感につま先を揺らしていた。


ねえ、彼女にしてくれたら、もしもしてくれたなら、怒ってもいいよ。独占欲で振り回されてもいいよ。
こうして無理やりに攫ったっていい。
だから、お願いだから、こんな宙ぶらりんなのはおしまいにしてほしいのだ。


荷物を置くみたいにフローリングに降ろされ、水を飲むようにと言われてからしばらく、時透さんのいつもより低く冷たい声が聞こえた。

「おっぱじめたのはどっち?きみ?あっち?」

後ろから抱き竦められたかと思えばすぐに片手がスカートの裾を捲り、指の腹がわたしの弱いところをやや乱暴になぞりだす。

よく考えなくたっておかしい。そんなの理にかなわない。時透さんの怒りの原因はやはりわたしたちのキスのことで、でもそんなのはまったくのお門違いである。怒るくらいなら、わたしをすっかり自分のものにしてしまえばいい。そうでないなら放っておけばいい。たまに見かける猫のように、気まぐれにかわいがるだけにすればいい。誰かにもらわれようと、そんなのはわたしの勝手だ。わたしは自由の身なのだ。
こころだけがあなたに奇妙にとらわれているだけで、わたしの自由はわたしのものなのだ。

「ひとが心配して見に行ってあげたのに、舌ねじ込まれて満更でもなさそうな顔してさ。そんなに気持ち良かったわけ?揺れちゃった?」

気にしてくれていることを迷惑とは思わない。わたしはばかだから、すこしだけ、ほんのすこしだけうれしくさえもある。
しかし彼女にしてくれるわけでもないのに、おもちゃを横取りされて拗ねるこどものような態度を取られたって、どうしたらいいのかわからない。わたしは恋人ごっこがしたいわけじゃないのだ。
まぐわうだけでなんとかなるような、そんな底の浅いかなしさなんかは、持ちあわせていない。

「関係ない」

だって、わたしだっていやだったのだ。
時透さんは、わたしとは一度だってしたことがないキスを、彼に好意を抱くおんなのことしたのだ。わたしの目の前で。
わたしが欲しくてたまらなかったものを、割り箸一本と運でかっさらっていかれたのだ。悔しかった。
わたしの身分、わたしたちの関係のいびつさ、動かしようのない現実などがのしかかって、息ができなくて、苦しかった。たまらなかった。
取らないで、と言ってしまいたかった。
わたしが関与しようのない、彼の、彼女の、キスのゆくえ。

「関係ない。時透さんには、関係ない」
「はは、確かに」

急に体重をかけられて、床に肘をついてしまう。
腰を無理やりに浮かされて、わたしのくちびるを時透さんの指が割る。
二本、三本、と滑り込んでばらばらに動く指先が、わたしの理性を呆気なく奪ってゆく。
いやだ。いやなのに、ひどいひとと思うのに、時透さんの吐息が耳にかかるたび、催眠術にかけられたみたいに、だらしのない声がこぼれてしまう。

「してあげないよ。キスだけは、してあげない」

決定打だと思った。
もしかしたらと、いう愚かな希望をすべてかき消すのにじゅうぶんな一言だった。
でもいい。これでいい。わたしはようやく、前へ進めるのだ。また自分の足で立って、きっとどこへだって行けるはずだ。きっと。