23:さても命はあるものの

「もうふたりでは会いません。すきでした、さようなら」

ぽつりと呟いた声が、カーテンを閉じたままのほの暗い部屋に響く。

今日来なかったら財布捨てちゃうからね。
時透さんから送られてきた久しぶりのメッセージの上に、わたしは何度も視線を滑らせた。何度も何度も、その上を指先でなぞった。

「もうふたりでは会いません。すきでした、さようなら」

もう一度呟く。
今度は誰もいない廊下で。ひとりきりで。さようならの練習をする。できるだけ、なめらかに言えるように。


時透さんと会う前に、玄弥くんと会うことにした。
カフェで軽食をとって、その後近くの公園のベンチに並んで座る。自動販売機で買ったカフェ・オ・レのプルタブの周りを指先でいじりながら、わたしはなにも言えずにいた。風のない、ぬるい昼。

玄弥くんの顔には最初から諦めの色がありありとうつしだされていて、わたしたちのあいだを漂う無言の時間のあいだ、なにを言われるのか待っているというよりは、ただ、わたしが話し出すのを待ってくれているようだった。
こんなやさしいひとをさらに傷つけてしまうということが、果たしてほんとうにしなければいけないことなのだろうか。
苦しくなって眉をひそめるわたしを見て、玄弥くんはちいさく笑った。白い犬歯がちらりとのぞく。
体躯のおおきな玄弥くんも、笑うときはとても幼く見える。時透さんも。自分のことは、よくわからないれど。

「そんな顔すんなよ」
「ご、ごめんね」
「謝るなって」

謝るなと言われたら、今度はいよいよなにを言っていいのかわからなくなってしまって、わたしは戸惑う。

「でも、そういうところがすきだった。いっつもなにか考えてるとこ。一生懸命生きてるかんじ。いじらしくて」

玄弥くんがやわらかなパスを投げてくれる。
わたしはこのやさしさをどれだけ無心して、どれほど傷つけてしまっていたのだろう。

「……ありがとう、こんなわたしをすきと言ってくれて。やさしさにあまえて、あまえてばかりで、ごめんなさい」
「すきでそうしてたんだ。見返りが欲しかったわけじゃないから。叶わなかったのは、まあ、ちょっと残念だったけど」

もっと決定的にお互いが傷つくようなことを言わなければ場が収まらないと思っていたこの場も、玄弥くんのやさしさの力をもって、そうっとしずかに終わりを迎えた。
これはきっと、玄弥くんの望んだ終わりかたではない。
でも、わたしの望んだ終わりかたでもない。

友人に戻ろう、と玄弥くんは言ってくれた。
しずかに頷いて返したけれど、具体的になにをどうしていけばよいのかはわからなかった。
時透さんとは、このあと、なにに戻るのだろう。
わたしたちは、少なくとも友人といえる関係では、おそらく一度もなかったはずだ。

なんであれ、いつまでもこうしてなどいられない。
時間は無限だと、願えばなににでもなれるのだと、そう思っていたこどものころとはもう違う。時間は有限だし、わたしはつまらない人間で、目を凝らしてじっと構えていなければ、ささやかなしあわせさえも手には入らない。
なにを賭けたって手に入らないもののために、時間や労力や気力などのなけなしの宝物を投げ打つのは、もうやめにするのだ。


通い慣れたマンションに着く。打ち放しのコンクリートの外壁。冷たいにおいのするいりぐち。
鍵はもう手放してしまったから、久々にエントランスで部屋番号を呼び出した。みょうじです、と呟くも返事はなくて、施錠の解ける音と共に自動ドアが開いた。わたしの名前は、誰もいない空間に虚しく響いて消えた。

インターフォンを鳴らす前に玄関扉が開かれる。
時透さんはわたしの財布を指で摘むように持ち、ベルでも鳴らすように揺らして笑っていた。


「いらっしゃい。まあまあいい子だったきみのお願いを、今日は、なんでもひとつ叶えてあげる」


時透さんの笑みはいつものようにニヒルだったけれど、その面差しは、すこしかなしそうにも見えた。
突拍子もない言葉にすこしだけ驚いたものの、叶えてほしいことにはひとつだけこころあたりがあったので、狼狽えることも、必要以上に揺さぶられるようなこともなく、わたしは時透さんの瞳をしっかりと見つめ返すことができた。

暗い玄関に、わたしの息を吸う音が響く。
ひゅうと乾いた、さようならの音だ。