おろしたままの長髪がさらりと揺れて、サボンのやわらかいかおりがする。
濡れ烏色の頭のてっぺんから、向こう側が透けて見えそうな薄浅葱色の毛の先まで、時透さんはきれいだ。その隙のないうつくしさは、いつもわたしの喉を締め上げる。
「わたしのこと、どう思っていたのか教えてください」
近くにいるのに触れあわない距離で、かおりを感じるのにあたたかさのわからない距離で、わたしたちは見つめあった。時透さんは、泣きそうな顔でちいさく笑った。暗い玄関には、ドアスコープからの細いひかりだけがさしている。
これを聞いて、どうしたいのかはわからない。
しかし、ひとつだけ願いが叶うのなら、ほんとうことが知りたかった。
これからどうするのかでもなく、どうしたいのかでもなく、ただ変えられない、しずかにそこにある、過去のこと。
「だいすきだった」
「そうじゃなくて」
「だから、すきだったよ。きみのこと。おんなのことして」
時が止まってしまったみたいなしずけさのなか、わたしたちは半ば睨み合うようにじっと、ただじっとお互いを見つめていた。
時透さんの青みがかった白目がてらてらと光っている。一歩後退りしたわたしの背中をドアノブが打つ。
「そんなのって、納得できないです」
「宇髄さんに説教されちゃったんだ。唾つけただけじゃ横取りされるぞって」
「そんな答え、わたし……」
「最初は大学時代からの片思いを引きずってる玄弥をみんなで応援しようっていうので近づいたんだけど」
おいで、というあまい声にかぶりを振る。
時透さんは苦く笑って言葉を紡ぎ続けた。
「気づいたらすきだった。でも横恋慕はよくないし、なにより、社内恋愛は禁止されてたしね」
「でも、仮にわたしと玄弥くんがいい仲になったとして、それじゃあ社内恋愛になってしまいます」
「玄弥にはちゃんとする自信があったんじゃない?ぼくにはない。きみを優先しない自信」
きみを優先しない自信。
わたしを優先しない自信。
思わず高鳴る胸をぎゅうと強く押さえる。心臓なんて置いてきたつもりだった。どんな言葉をかけられようと揺らいだりはしないと、そう誓ってきたはずだったのだ。
いつもこうだ。時透さんを前にすると、わたしはおかしくなってしまう。理性や判断力なんかはすべていかれてしまって、どんどんだめなおんなになる。ふらふらと、あまいかおりのするほうへ誘われるようになってしまう。
飛びついてしまえば、時透さんはきっと抱きとめてくれる。やわらかく、そよ風に抱かれているようにわたしを包んでくれる。
しかしわたしのなかには、ここで縋ってしまえば二度と離れられないという、重たい確信があった。
気まぐれだったんだよと言われても、すげなくされても、もう絶対に、どうやったって彼のことを諦められなくなってしまう。
そこに待っているのが、愛に絡め取られて沈んでいくような暗い日々だったとしても、わたしはきっとその奈落から這い上がっては来られないだろう。これはラストチャンスなのだ。
こころが軋むように痛い。こんなに苦しいのに、どうしていつだって傷つきに行ってしまうのだろう。
これっきりにしたいという気持ちの裏側で、ほんとうはすべてを委ねてしまいたいと思っている。
いくら自分をごまかそうとしたって、いくら諦めようとしたって、どれだけ傷つこうとも、わたしは本音ではいつだって時透さんを求めている。今も。どうして。
「きみの気持ちを聞かせて」
鼻の奥がつんと痛くなる。
時透さんの瞳はまっすぐで、嘘の色はどこにも見えない。
しかし信じきることもできない。
伝えてしまえばどうなるのかがわからなくてこわい。
嘘だよと笑われてしまうだろうか。ふられてしまうだろうか。また追い返されて、なにごともなかったかのようにされてしまうだろうか。
わたしは後ろ手でドアノブに触れる。冷たくて硬い。押し下げれば、ここから出られる。ここで逃げたって、明日にはなにごともなかったかのように振る舞う権利がわたしにだってきっとある。時透さんがいつもそうしてきたように。逃走することはきっと、罪にはならない。
「すきです」
下げかけたドアノブがわたしの手のひらを押し返す金属音が響く。
「すきです」
「うん」
「時透さんが、すきです」
「うん」
時透さんのやさしい指先がわたしの肩を掴んだ。
式台の上の彼を見上げると、プレナイトの瞳と一瞬だけ目があった。細くやわらかい髪の毛が垂れてきてわたしの両頬をゆるゆると撫でた。
触れあうくちびるからしあわせが流れ込んでくる。
待ちわびた瞬間。いつも思い焦がれた瞬間。想像していたよりも薄く、すこし硬い肌。
すきです、ともう一度呟いたくちびるを塞ぐキスも、涙を拭う親指も、すべてが夢のようにやさしかった。
こどものころ、欲しいものを欲しいと言えたときのことを、すこしだけ思い出した。だめになってしまうことのおそろしさを知らなかったころ。失敗してしまったことを、それも勉強であり、必要なことだったのだと、やさしく諭してもらえたころ。
世界はやさしくて、わたしは自由だった。きらきらとかがやいていた、遠い昔のこと。