4:チューニングは気ままな指先で

「玄弥くん、なにかこころあたりないかしら」

最後にそう言い添えるよりももっと前から視線をあちこちに泳がせていた玄弥くんの様子から、近ごろの時透先輩の奇行と玄弥くんが無関係でないことはすぐにわかった。
先日のわたしとの会話を時透先輩に話しただけ。蓋を開けてみれば、そんなオチである。
玄弥くんはしきりに「ごめん」と口にしていたけれど、特に怒りはなかった。安心したのだ。
時透先輩に目をつけられたわけでも、社内で悪目立ちしていたわけでもない。それがわかっただけで、幾分かはこころが楽になった気がした。



「ピンク」
「え」
「ショーツがね」
「あ、え、どうして…」
「きみのスカートがめくれてるから」
「やだ、うそ!」
「うそだよ。というか、あたってたんだ」

あの日のことも時透先輩のことも忘れかけていた、ある日の昼下がりのことだった。
先輩の唐突なジョークを受けたわたしは驚きと羞恥のあまりに、書類をバインダーとクリアファイルごと日当たりのよい廊下へ盛大にばらまいた。紙とファイルはよく滑り、わたしの元からぐんぐんと遠ざかっていった。

なにごとにも関心のないような、長いまつげをひっかけたまるい瞳。ゆっくりとしたまばたき。花びらのようなくちびるはいつもゆるく閉じられている。
時透先輩の表情からは感情が読み取れない。
わたしは、きれいに磨き上げられた床に散らばる書類を見下ろしながら、先輩も冗談を言ったりするんだなあ、なんてことをぼんやりと考えた。
書類は先輩が拾ってくれた。おろしたてのクリアファイルは、片面が擦れて白っぽく汚れてしまっていた。

「焦ったり怒ったりぼんやりしたり、きみは忙しいひとだね。あと、ものをよく飛ばす」
「…時透先輩の言動についていかれないだけです」
「そういえば、あれ、ちゃんと使ってる?」
「あ、キャンドル、ありがとうございました。飾っています。かわいいから、使ってしまうのがもったいなくて」
「せっかくあげたんだから使いなよ」

時透先輩のなかでは、きっとそこで会話が終わってしまったのだと思う。
彼は落ち着いた声色でそう言うと、別れの挨拶も締めの言葉もなしに、女性もうらやむようなうつくしい黒髪をなびかせながら颯爽と去っていってしまった。
曲がり角に一瞬残った薄浅葱色の毛先が、魚のしっぽみたいですこしかわいかった。


時透先輩の挙動に振り回されるうちにわかったのは、棘のある言い回しでもおそらく悪意はないということ。ユーモアのあるおもしろいひとだということ。
水曜日。つまらない五日間の、ちょうどまんなか。
先輩の低い温度のなかに潜むチャーミングさを見つけ出したことで、わたしはわずかに得意げな気持ちだった。