8:九のつく日は

土曜の朝は、そうっとわたしの布団へすべり込んでくる。
わたしを起こさぬように、音もなく、ちょうどよいぬるさで。

なにものにも干渉されない目覚めの、なんとあまやかなことか。
近ごろの長雨もすっかり止んで、今日は晴れ晴れとしている。
気分のよい日だ。
上機嫌ついでにおしゃれをして、あてもなく散歩をすることに決めた。


公園を抜け、きれいに整備されたプロムナードを行く。
おおきく遠回りをしながら、三つ目に近いスーパーマーケットへ行くことにした。

わたしが帰ってきた。月曜には帰って行ってしまうわたし。オフィスにはいないわたし。
曖昧に笑わなくていいわたし。つまらないサンダルを履かなくてもよい。


帰りは気になっていた喫茶店にでも寄ろうかなどと考えているうちに、あっという間に目的地に着いてしまった。
家族連れが多かった。
わたしは急に自分の身分が恥ずかしくなって、往来の端を、やや足早に、縮こまりながら歩いた。

自動ドアが開いて、大仰に冷えた風がわたしの首筋を撫でる。
よく見知った顔があった。
時透先輩はすこしのあいだ、クレープを片手にまあるい瞳をさらにまあるくしていたけれど、すぐにゆるりと口角を上げた。

「今日、クレープの日なんだ」

ぼうっと突っ立ったままのわたしの手を取って踵を返し、時透先輩はずんずんと店の奥へ進んでいく。
繋がれた手のひらがじくじくと熱を孕んでおおきく脈を打つ。あどけなさと男性らしさが混在する時透先輩の手のひらは、ごつごつと骨ばっていた。おとこのひとだ。やけどしてしまいそう。


「おいしかったよ、ふろふき大根。うまく炊けてた」
「よかったです。でも今度はクレープをごちそうになってしまって、結局わたし、いただいてばかりですね」
「好意はすなおに受け取るほうがかわいいよ」

時透先輩が買ってくれたのはホイップクリームとカスタードクリームが絞られたオーソドックスなチョコバナナクレープと、青いシロップが底に沈んだタピオカドリンクだった。
先ほどのぬくもりが、手のひらを握っても開いても奇妙にずっと残っている。線香花火みたいに、そこからじくじくと爆ぜていくようだった。

「きみは、外にいるときのほうがかわいいね」
「え」
「この前も思ったけど、会社にいるときよりずっとかわいい」

時透先輩だって。
そう言おうと思ったけれど、先輩は休日だって平日だって、どちらもすてきだ。
ちいさな頭に長い手足。意外と広い肩幅。しっかりとした首はすっと長い。
のどぼとけのでっぱり。張りだした筋の潔いライン。滑らかな肌と、それらの描く陰影のうつくしいコントラスト。
すりガラスのような瞳がわたしを視界の隅に捉えている。

先輩は作り物のようにうつくしくて、つまらないわたしは不似合いだ。
ちいさな丸テーブルには、先輩側とこちら側とのあいだに、見えない国境がある。世界が違う。
こんなひとと同じ時間を共有するなど、わたしの人生は、一体全体どうしてしまったんだろう。
運命を動かす大事な歯車が、なにもかもそっくり取り換えられてしまったようだ。

先輩がわたしをかわいいと言った。もちろん、普段よりかは、という意味でだけれど。
のぼせた頭を冷ますように勢いよくストローを吸う。危うくぬめぬめのちいちゃな玉が気管で大渋滞を起こしてしまうところだった。
ちいさくむせるわたしを見て、先輩は目じりに指をあてながらおかしそうに笑う。
時代が時代なら、先輩はジゴロだ。