9:幸福はスパイス

時透先輩から飲みのお誘いがあった。
ちょうど暇をしていたところだし、明日も休みとあらば特に断わる理由もなく、わたしは急いで支度を済ませ、メールで送られてきたマンションの一室へと向かった。

家主は我妻さんという幹部候補の男性スタッフで、玄弥くんとも仲がいいひとだ。
わたしも何度か話したことがある。軟派で調子のいいところがあるけれど、ひとあたりのよいすてきな方だった。


どういうわけか軽い気持ちで誘いに乗ってしまったものの、エントランスを抜けてから足取りは重たくなる一方で、玄関扉を前にしたときには、自分の場違いさに足がすくんで動かれなくなってしまった。
一体なんの意図があってこんなところへ呼ばれてしまったのだろう。
こんなことが万が一ほかの女性スタッフの耳に入るようなことがあれば、彼女たちが飽きるまでのしばらくのあいだ、くだらない噂話の餌食になってしまうということは火を見るよりも明らかだ。
ハイリスクにもほどがある。

断ってしまおう。そのほうがよい。
わたしは、時透先輩と関わるのがこわい。
先輩は、夢のようにうつくしくて、気取らなくて、ミステリアスで、すてきだ。わたしなんかとは交わらない世界のひとだ。
これ以上翻弄されると、危うく深入りしてしまいそうになる。
いけない。
日常とは、平凡でありふれた、つまらないのがいいのだ。わたしにはそれがちょうどいい。
無色透明の平穏が崩れたとき、目の前に広がるのが絶望かもしれないだなんて、考えるだけでおそろしい。
つまらなくてもよい。それで平和なのなら。

「なまえ、なんで」

勢いよく振り返った先には玄弥くんがいた。
わたしたちはお揃いの間抜けな顔を突き合わせるようにして、しばらくぽかんと口を開けていた。
缶チューハイの入ったビニール袋が吹きさらしの廊下にどしゃりと落ちた。



テーブルの上にはすでにたくさんの壜や缶が並んでいて、部屋のなかはひどく蒸していた。
飲みはじめてからかなり経っているようで、皆ほどよく出来上がっている。
今日の集まりは、家主の我妻さんのほかに彼と同じ部署の竈門さんに嘴平さん、そして玄弥くんと時透先輩いう面子らしい。

「どういうことだよ、おい」
「禰豆子もカナヲも来れなくなって、家主がうるさいから」
「ご、ごめんね、玄弥くん。わたしもよく把握していなくって、迷惑だったかしら」
「いや、そうじゃねえよ。そういうんじゃねえんだけど……」

そう言い淀んでから、ああくそ、とこぼし、玄弥くんは目の前の壜の中身を一気に流し込んでしまった。
そしてはやし立てられるままに二本目の壜を開けてしまう。

「だ、だいじょうぶでしょうか、玄弥くん」
「だいじょうぶだよ、玄弥はダウンするのも早いけど、復活するのも早いたちだから」

竈門さんは、好青年を絵に描いたようなやさしいひとだった。
気のいい先輩たちに囲まれて、しばらく経てばわたしの緊張もすこしずつほどけていく。
会話も徐々に転がるようにはなってきたけれど、部署も期も性別も違うわたしたちに共通の話題はあまりなく、テーマは自然と玄弥くんに関することに向きがちであった。
お兄さんっ子だということ、お兄さんを追って勝手に入社を決めたせいでしばらく兄弟仲が険悪になってしまったこと、思春期を引きずり、女子がとても苦手だったということ。

そのあとは会社のことや皆のこともたくさん聞かせてもらった。
社長と皆とは、社長の所有している古くおおきな剣道場で知り合ったらしい。師範や師範代だった者もいれば門下生だった者もいるし、竈門さんや我妻さんなんかは道場利用者御用達のパン屋の店員だったらしい。
先ほど聞いた禰豆子さんという方は竈門さんの妹さんで、カナヲさんは関連会社のスタッフで皆とは頻繁に会う仲だそうだとか、ほかにもいろいろ。


誘ってくれた時透先輩はなぜだかあまり話してはくれなくて、わたしはこころ細いような、かえって安心したような、どっちつかずの気持ちでいた。

そろそろお暇しようかと立ち上がったところで、世界の天地がぐるりとさかさまになった。目の前が白くなったり黒くなったりして、まぶたの奥がちかちか眩む。
どうやら飲み過ぎてしまったようで身体の自由が利かない。
ゆっくり傾いでいく重たい頭をぽんと叩いたのは、時透先輩だった。
肩を後ろからやや強引に引っ張られて、わたしは力の入らない身体の重みすべてを先輩の胸に預けてしまう。


「飲みすぎ。送ってくよ」


ほかの一切の音が遠くに聞こえるなか、先輩の声だけが耳元でクリアに響いた。
身体をあわせた背中から、先輩の体温がじくじくと広がっていく。わたしを侵してゆく。
触れているところから溶けていってしまいそうだった。