流れ落ちる涙


風呂場から声がする。
どちらかが出てきたようだ。
見つかってしまう前に逃げよう。
涙を乱暴に拭いて出入口のドアを開けた。
廊下を確認すると静かに出て、静かに閉める。

エレベーターや階段はあるかな。
ここが別荘の類いじゃなければ高層階なはず。
あの部屋から離れて反対側まで着くと非常用の階段を見つけた。ここから降りて下まで行こう。
一体何階なのかとドアを見れば“10”の表記。
なるほど。ここは10階建てのホテルなわけだ。
ドアノブを掴もうと手を伸ばした…が、背後からそれへ重ねるように掴まれた。
素早く振り返る。そこにいたのは…。

「…コラ、さん?」

“どうしてここに?”

黒いふわふわコートを羽織る、コラさんだった。
どうしてここに?は私の台詞…では、ない、か。

「今夜は、ここに来ちゃったんです。私も船の方へ現れたら良かったのに、って…思ってます」

上手く笑えてるかな。
口元が引きつってる気がする。
コラさんから視線を逸らして下を向く。
掴まれた手はゆっくり離れた。

コラさんがここを警備してたのかな?
…見つかったのがコラさんで良かった。

「私、ここから出て人気のない所で過ごします」

“夜に一人でいるのは危ないぞ。”

「でも、船へは行けません。あの部屋へ戻る勇気もありません。大丈夫、朝になれば消えますから」

それでは失礼します。
小さく頭を下げて階段を降りる。
ぺたぺたと素足の音だけが響く階段。
ひとつの階を降りるのに時間がかかった。10階から数階は部屋がないのかもしれない。結構降りてきたと思うが、階層を指す数字が見えてこない。
…これ、ちゃんと1階に着くよね…?
不安になって立ち止まる。一度上を仰ぎ見た。

ドフラミンゴさんは私がここにいるのを知らない。
声はかけなかった。姿も見せなかった。
それなのに気づいてほしかった…というのは傲慢だ。ため息をついて視線を元に戻す。

すると、ふわりと香る煙草の匂い。

「……コラさん…?」

何故、私の目の前に?

“心配で追いかけてきた。”

音もなく現れたコラさんに目を見開いて驚いた。
いつの間に。
サラサラと紙に文字を綴り、それを見せる。

“5階におれの部屋がある。今夜はそこで過ごしてほしい。誰も入って来れないから安心して。”

“傷ついたきみを、外には出せない。”

膝を折って私に視線を合わせるコラさん。
傷ついたきみ。
その文字が目に入った途端、涙腺が緩んだ。
目を擦ったらその手を取られた。
コラさんに目をやれば首を振っている。
…擦らないで、って言っているのかな。

瞬きをする度、涙が零れていく。

優しく手を引かれる。
コラさんが案内してくれるらしい。
涙を流しながら後を着いて行った。

“ここはおれが細工した部屋だ。誰も知らない。
もちろん、船長も。今夜はここにいてほしい。”

“怒っても、泣いても、声は外に漏れないようにしてる。朝になったら一度おれが確認に来るから。”

「すみません、…ありがとう、ございます…」

“今は何を伝えても信じられないかもしれないけど…。あの人は、ドフィは。きみを大切に思ってる。夜、部屋へ近づかないよう命令すら出したからな。おれはまぁまぁ無視してるけどね。”

にっ、と口元に笑みを浮かべるコラさん。
よく顔を覗かせては「…お前また来たのか」なんて
ドフラミンゴさんに言われていたのを思い出す。
…部屋へ近づかないよう、命令をしてたんだ。
でも、それを反故にしても咎められないコラさんはかなり信用されてるってことだよね。

…今夜はコラさんの厚意に甘えさせてもらおう。

「あの、コラさん…」

声をかければコラさんは首を傾げる。
相変わらず仕草が可愛い。
一度きゅっと口を強く結んで、弛めた。

「少しだけ、コートを触らせてください」

呟くように出た言葉。
コラさんはすぐ、反転して背中を向けてくれた。
…触ってもいい…ってこと、だよね?

恐る恐る手を伸ばす。
ふわりと手触りの良い黒い羽。
やっぱり、ドフラミンゴさんの桃色コートと同じ。
ふわふわでもこもこ。
煙草の香りと少し焦げた匂いもする。
同じ手触りでも匂いは全然違う。

「…ありがとうございました」

コートから手を離し感謝を述べた。
コラさんはもう一度くるりと反転する。

“ドフィが好きなんだな。”

それを読んでコラさんを見上げた。
…わかるの?
それとも、わかってしまった?

“きみの優しさがあの人を変えてる。おれはきみが
ドフィにとって大事な人になってほしい。”

「…無理、ですよ。私より素敵な人はたくさんいます。私だけを想うことは…きっとないです」

“…泣かないで”

そっと、髪を撫でられる。
大きな手のひら。
まるでドフラミンゴさんのような手のひら。
…あまり引き止めてはいけない。

「ごめんなさい。お部屋、お借りしますね」

ひとつ頷いてぽんぽんと頭に触れる。
踵を返し、部屋を出るコラさんに声をかけた。

「行ってらっしゃい」

ゆっくり振り返って…微笑んでくれた。
コラさんは海賊だと思えないほど、優しい。



◇ ◇ ◇



朝、目を覚ますと私の部屋だった。
体が重い。
気分も悪い。
深い深いため息が何回も出てくる。

今夜あちらの夢を見たら、船を降りて島を散策する予定…だけど、寝るのも夢を見るのも躊躇われた。
知らないフリは出来なさそうだし、出来たとしてもドフラミンゴさんを前にしたら泣いてしまう。
それを問い質されて困るのは自分だ。

夢を見ない、会わないようにするには夜更かしして短時間だけ寝る。もしくは朝方に寝始める。
こうすればドフラミンゴさんの夢を見ないで済む。

せっかく「降りてみるか?」と尋ねてくれたのに。
一緒に南国の島を歩きたかったのに。
フラッシュバックする、見知らぬ女性の嬌声。
…当分は、会いたくない。会えない。

重い体を引きずってシャワーを浴びる。
こんな最悪な状態でも仕事へ行かないといけない。
朝からストレスフルな精神状態で出勤とか…。
いっそ倒れてしまえたらいいのに。
だがそう簡単に倒れられない。
健康で頑丈な体、プライスレス…!


それから。
仕事へ行き、帰って来て寝るのは必ず日付を跨いだ午前三時頃。そこから三時間ほど仮眠をとって目を覚ます。こんな生活で一週間過ごした。

明日は休み。しかも二連休。
そう思うと瞼が落ちてくる。
無理な短時間睡眠が体に負荷をかけていたようで。
眠れ眠れと脳が命令を出していた。
今夜はまだ日付けを越えていない。
あれから一週間経ったけど、…会いたくない。

もう少しだけ時間がほしい。

うとうとしていたが、ついに瞼を上げることが出来なくなり、睡魔に抗えぬまま…眠ってしまった。

「─よォ、久しぶりだな、ナナシちゃん…?」

低い低い、地を這うような低い声が耳に届く。
来てしまった。夢を見てしまった。

私の名前を呼ぶ、ドフラミンゴさん。
心臓がぎゅっと強く掴まれたかのように痛い。
会いたくなかった。
でも、会いたかった。
…やっぱり、会いたくなかった。

いつもみたいに笑わなきゃ。
なにも無かったように。
ドフラミンゴさんはとても怒っている。当然だ。
仕事だったんだ・と、謝ろう。

「てめぇ、何故来なかった。島を散策したかったんじゃねェの…か、………何、泣いてやがる」
「ドフラミンゴ、さん」
「…なんだ」

会いたかった。口から出そうだった。
堪えて堪えて堪えて。
堪えきれなかったものが、目から零れ落ちる。

怒気を孕んだ空気が一瞬で凪いだ。
そうさせたのは、私…なんだろうか。
次の言葉を口にしない私を急かすことなく、黙って見つめ続けるドフラミンゴさん。
視界に揺れて映るのは、サングラス。

「…こんばんは」
「……おう」
「お久しぶり、です。来れなくてごめんなさい」
「別にいい。…泣きやめよ」

大きな手が頬を包んで親指が涙を拭っていく。
優しく触れてくれる、大きな手のひら。

「ドフラミンゴさん、」
「なんだ」
「あの、今日は眠いので…横になりたい…です」
「……またおれにお預けさせるつもりか?」
「……ごめんなさい…」

謝ってほしいわけじゃねェんだがなァ?
そう言いながら正面から抱きしめられた。
背中を優しく摩ってくれる。

この腕の中へ、あの女性も包んだのかな。
優しく抱きしめたのかな。
想像したくないのに考えてしまう。
…わかっている。これは嫉妬だ。
同じ世界にいるわけではない。
同じ土俵に立ってすらいない。
私が妬くのは間違っている。

「仕事か?」
「…え?」
「仕事で疲れてんのか?前に来れなかった時も仕事が原因だっただろう。身を粉にするまで働くな」
「…ふふ、私の上司に言って欲しいです」
「ああ、直々に文句言ってやるよ」
「3メートルもある人が来たら驚きますね」
「…やっと笑ったな 」

笑った?私、笑ってた?

「もう寝ろ。そんで…明日、ここへ来い。必ずだ」
「…来れなかったら…?」
「そん時は、泣き叫ぼうが逃げようが嫌がろうが、意識がとんだ後ですらも。朝が来るまで抱き潰す」

こわい。
ドフラミンゴさんなら絶対に有言実行する。
身を震わせてベッドへ寝転がった。
タイミング良く、眠気がやってくる。
本当に体が睡眠を欲しているようだ。

目を閉じて意識も微睡んで来た頃。

「……おやすみ、ナナシ…」

優しく名前を呼ぶ、桃色の人の声が聞こえた。
額に唇を寄せられている。

こんなに優しく触れてくれるドフラミンゴさんを、あの女性も知ってるのかな…?
私にだけだったら、いいのになぁ…。

涙が一筋…流れた気がした。


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