翌日。
目を覚ませば穏やかな寝息が耳に届く。
閉じられた瞳。絡みつく腕。心地よい心音。
エースの全てが、愛おしい。
窓の方へ視線を移すと外は薄暗い。太陽はまだ登っていないようだった。ぐっすり眠っているエースを起こすのは忍びないけれど。
すり、と厚い胸に寄り添って背中に腕を回す。
…ああ。今日、この人と。お別れするんだ。
暖かくて、優しくて。しっかりしてると思えば、あどけない所もあって。甘えたさんでやきもち妬きで。笑顔がとっても素敵な、私の恋人。
「…エース、起きられる?」
「ん、んー……もうちょっと…」
「準備してもいい?」
「………だめ」
ぎゅう。
脚まで絡め取られる。このベッドから出さない、とでも言いそうな声色をしていた。
「…リオ、おれのわがまま聞いて」
「うん、なぁに?」
「ちゅーしてほしい」
「ふふ、いいよ。よいしょ、」
絡まる腕はそのままに、少しずつ上へ移動する。
エースの髪を撫でてそのまま頬へ手を伸ばせば、口元を緩ませ、ふにゃりと笑みを浮かべた。
ちっちゃい手。大好きな、リオの手だ。
優しく、手を包むように握られる。
エースの笑顔に胸が締めつけられた。
ああ、愛しい。心からこの人が愛おしい。
軽く唇に触れて、離れた。
すると、もっとほしい。そう言うかのように、
顔が近づき唇を寄せられ、舐められたり食まれたり。いつにも増して甘えている…気がする。
「リオ、すきだ」
「私も、エースが好き」
「…首筋にキスマーク、付けすぎたかな」
「…エース…」
仕方ねぇよな。リオが煽ってきたんだし。
…いや、いやいや!仕方なくないからね!?
マフラーが必須になってしまった。
頬をつつけば、にひひと悪戯っ子のように笑う。
ゆっくり腕の力が抜け、離れるのを許された。
服を着替えて、少しだけメイクもして。
この世界へ来た時と同じように準備する。
その間、エースはベッドに腰掛けて私を見つめていた。何も話しかけてこないエース。
まるで私の姿を目に焼き付けているようで。
「…エース、一緒に行ってくれる?」
「もう、行くのか」
「うん。日が昇れば、皆さん起きて来ちゃうでしょ?これ以上は…名残惜しくなるから」
「リオ、あの場所まで…抱き抱えていいか?」
「えっ、そ、それは…」
「ストライカーで連れて行きてェんだ」
だめ?
首を傾げて尋ねるエース。あざとい。
その表情と仕草でお願いしたら、私が断れないことをわかっている。くっ、あざとい。
言葉に詰まったのでひとつ頷けば、すぐに立ち上がって、正面から強く抱きしめられた。
優しく抱き上げられてエースの肩に手を置く。
首に腕を回してほしいと言われたのでその通りにする。抱き着くような体勢に頬が熱くなった。
ストライカーに乗ると、エースの足から炎が出てゆっくり動き出す。海上から見るモビー。
大きな大きな、白いくじらが船頭の巨大な帆船。
少しの間だったけれど、守ってくれた。
私のことを家族だと、包んでくれた。
「ありがとうございました…!」
船に向かって声をかけ、頭を下げる。
エースの腕の力がぐっと強くなった気がした。
島へ着いても、辺りはまだ薄暗いまま。
昨日足を止めた場所へ辿り着く。
エースに声をかけてそこで降ろしてもらうと、今度は手を繋がれて一緒に歩き出した。
静かな草原。草が揺れ、花が香りを放ち、風がそれを運ぶ。そこを歩く私とエース。
まるで、世界で二人だけになったみたい。
「エース。ありがとう」
「…礼を言われるようなこと、してねェよ」
「たくさん助けてくれたよ。ありがとう」
「リオ、おれは心が狭いから。俺以外の男と幸せになるのは許せねぇ。おれがリオを幸せにしたいんだ。例え遠く離れてしまってもリオを想ってる。好きだ、大好きなんだ」
後方から、風が吹いてくる。
その風は少しずつ強くなっていく。
「なぁ。最後…の、わがまま、聞いてくれるか」
「……っ、うん」
「ひでぇこと、言うけど」
「うん」
「おれを想ってほしい。おれに心を縛られてほしい。リオが愛する男はおれで最後にしてほしい」
「ほ、んとに。ひどいこと…言うんだね」
「ああ。もう誰にも、心と体を奪われないでくれ。リオはおれの女だ。誰にも渡さねぇ」
向かい合えば、頬に手が触れる。
涙は一度流れてしまえば止まらなくて。
エースを見つめると荒々しく唇を奪われた。
何度も口付けられる。それが離れて行く時。
今度は静かに…名残惜しげに。
「リオ、愛してる」
熱が篭った言葉を、心に刻む。
その温もりは少しずつ離れていく。
エースの腕の中が恋しい。
恋しい…けれど。
「エース、大好きだよ!また…!また、あなたに会いに来るから、だから!!」
後方からの風はエースを襲う。
風の勢いに、背を向けている私も目を細める。
必死で声を張り上げた。
「絶対に、死なないで!!私がエースを幸せにするから!待ってて、エース!!!」
もはや暴風と呼べるほどの風。
エースの姿を見ていたかったけれど、目を開けていられず、瞼を閉じる。瞼の裏に、エースが浮かぶ。かっこよくて可愛い、エースの笑顔。
収まるまで震える足を叱咤して必死で耐えた。
すると突然、ふっ…と風が止む。
恐る恐る目を開けてみると。
「……戻って、きた?」
足元はコンクリートの道路。
目に入るのは海ではなく、そびえ立つビル群。
電柱、コンビニ。自転車に車。空は…曇り。
とても見覚えのある、通勤の道。
思わずその場にしゃがみ込む。
帰ってきた。私の世界に。帰ってこれた。
…帰ってきて、しまった。
「…エース…」
左手首に着いているブレスレット。
自分の服から微かに香る、エースの匂い。
自ら望んで帰ってきたのに。
もう、心が挫けそうだった。
会いたい、抱き締めたい、側に…いたい。
しばらくの間、そこで泣きながらしゃがんでいたら、後ろから知っている声が聞こえた。
「…もしかして、赤崎?なにしてんの?」
同期だ。
なにしてんのは私のセリフでもある。
…いや、そもそも今日は何日だろう?
あちらでは1ヶ月半近く過ごしたはず。
時間と日付の感覚がない。急いでカバンを開いてスマホの電源を入れる。パッと映し出された画面。そこに現れた日付と時間は。
私がエースの世界へ飛んでしまった日。
時間は、午前6時過ぎ。
確かここを通ったのは6時前だったと思う。
少ししか時間が経過していないことに驚愕した。
「ちょっとやだ!どうしたの!?あんたなんで泣いてんの!?…ねぇ、本当にどうしたのよ…そのキスマークの量なにごと…?それで出勤したらあのクソ上司に何言われるか…!いやいや!思わずツッコんじゃったけど!赤崎、大丈夫!?」
怒涛の如く、心配してくれる同期。
…うん、そろそろ同期は名前で呼ぼう。
私の同期、白峰椿。
椿はしゃがみ込む私の横へ、同じくしゃがんで背中をさすってくれた。
「椿、私ね」
「どした!?」
「“遠い所にいる男”を好きになっちゃった」
「…やめとけ、って言ったのに」
「ふふ、つらいねぇ」
「泣きながら笑うんじゃないよ…!」
ほら!立って!!
人が増えてくるから!さっさと会社に行って、
とっとと仕事終わらせて!話を聞くよ!
力強く手を引いて立たせられた。
そしてその手を外すことなく、ぎゅっと繋いで引っ張ってくれる。椿の優しさに涙が滲む。
途中、ドラッグストアに寄って、少し大きめのスカーフを買った。コートとマフラーを取った時の……キスマーク…隠しのためにね…。
エース、くそぅ、エースめ!!好き!
いつもの電車。
いつもの会社。
いつもの仕事。
…数時間前まで、春島にいたのにな。
ブレスレットに付いているクジラを触る。
親父さま。マルコさん。サッチさん。隊長さんたち、クルーの皆さん。ナースのお姉様たち。
エース。
デスクに腕を置いて、そこに顔を埋める。
意識が青い海へ飛びそうだったけれど、ポコン、という間の抜けた音で上体を起こした。
社内用のメール。その相手は…同期の椿。
“二日間の有給をぶん取ったから、今日はうちに泊まって。詳しい話、聞かせてくれる?”
すごい。
顔を上げれば、サムズアップしている椿。
かっこいい人がここにもいた。
私も頷きながら、サムズアップを返した。
***
「で、どこの誰よ。遠い所にいる男って」
「ううーん、説明が難しい…!」
場所は変わって、ここは椿の部屋。
会社から直行で家に来た。
着いたら着いたで、お風呂に押し込まれ、レンチンご飯を食べて、現在はタオルを持たされた状態で椿のベッドの上にいる。何故タオル?と思ったが、絶対泣くだろう、と言われた。
そんなに心配されるほど、私はヤバかったのか。
どこから話せばいいんだろう。
悩んでいると、椿が声を上げた。
「…赤崎、もしかして願いごと叶った?」
「え?」
「ほら、キーホルダー見て」
椿からもらった、白い花のキーホルダー。
ずっとカバンに付けていた。
どういうことか尋ねれば、花が減っている…と。
減っている??これ、キーホルダー、だよね?
「私が先輩からもらった時は、白い花が3つあったの。だけどこの前、願いが叶ったと思ったら1つ減ってて。赤崎に渡した時、花は2つだったんだよ。でも、今は…1つになってる」
「……は?」
「わかる。私も、は?って思ったもん。でも、本当。もう一度聞くよ。赤崎、願いごと叶った?」
『ニホンって島がどこにあるのかまだ分からねェけど、海は繋がってんだ。リオに会える日もそう遠くねぇだろ!』
「…そうですね。会えたら、嬉しいです」
『ああ!俺も嬉しい!』
確か、そんな会話をした。
あれが私の、願い…だったのかな?
だから、エースの世界に行けたってこと?
「叶った…と、思う…」
「まぁ、そのキスマーク見りゃわかるけどね」
熱烈すぎでしょ、あんたの彼。
独占欲ってレベルなの、それ?
周りの男を威嚇しまくってる感じがすごいわ。
…何ひとつ否定できない!
エースとの出会いが非通知電話…ということから話し始めて、ずっと連絡を取っていたこと。
あちらの世界へ行ってしまったこと。
こちらの世界へ戻る道を選んだこと。
「…ねぇ、その、彼の名前は?」
「エース。ポートガス・D・エース」
名前を告げれば椿がベッドから転がり落ちた。
なにごと。
「エース…?」
「う、うん」
「…テンガロンハットをかぶって、黒髪、そばかす、上半身裸で白ひげの船に乗ってる…あの?」
「!?椿はエースを知ってるの?」
マジか…、と頭を抱える椿。
「赤崎。驚くだろうけど、驚かないでね」
「えっ、なに?怖い」
「あんたが行ったって言う、その世界は」
漫画の中の世界で。
エースは、その中のキャラクターの一人だよ。
…何を言ってるんだ、漫画の中の世界?
エースが、キャラクター??
動揺する私を一瞥し、椿は自分のスマホを取り出して別の部屋へ移ると、電話をかけ始めた。
「赤崎、上司に病気休暇の申請してきたわ。今日からあんたは一週間、仕事休んで」
「なんで!?病気じゃないよ!?」
「わかってる。…私、持ってるから」
エースが出てる、漫画を。
既刊は最新まで全巻持ってる。うちで読んで。
一週間ずっといてもいい。
…絶交されてもいい。最新刊まで読んで。
途中で読むのをやめないでほしい。お願い。
そう言って渡されたのは、書店の漫画コーナーでよく見る…必ず、見る。私も知るタイトル。
国民的大人気漫画。
ワンピース。