パンクハザード研究所裏口。
裏口と言っても正面入り口が見えるところにある。正面入り口ではどうやら海軍が中に入ろうとしているらしく、パンクハザードの半獣兵たちと小競り合いをしているらしい。怒号が飛び交い戦いの激しさが知れる。
海軍中将と大佐にしては苦戦しているみたいだ。彼らには訊きたいことがあるから死んでもらっては困るのだけれど。
ローが先ほど人格を入れ替えたらしく、上手く戦闘が行えないようだ。
ハニーは他人事としてその戦いを見下ろしていた。
彼女に限らず女性がフランキーの体に入ったとしたら死にたくなること必至だが、死にさえしなければ人生いくらでも転機は訪れる。計画に支障が出るかもしれないというのに、海軍を殺さなかったローの株が彼女の中で僅かに上がった。
何かしらポリシーのある人は好きだ。その分だけ扱いにくくはあるけれど。
今まで吹雪から避難していた場所から距離的にも足場的にも徒歩で目指すには辛い裏口まで、彼らが到達するのは一瞬だった。
オペオペの実、やはり汎用性が高い。自分の能力など比べ物にならない高価値だ。海軍や彼らが血眼で手に入れたがるのが分かる。
眼下の戦いは気にも留めていない様子のローを横目に見て、ハニーは感心したように頷いた。
結局、頭にチョッパーとハニーが乗るのをローが嫌がった(キレられた)から、チョッパーは彼女が抱えてローの隣にいる。四肢の一つも動かすのに苦労しているチョッパーがもぞもぞと彼女の腕の中で動いて、黄色い声を上げた。
「お前の能力便利だなー。ワープか!?今の!!」
チョッパーはこういったSF的なかっこいいものが大好きだ。魚人島でフランキーが初披露したビームにも大興奮だった。
「黙って袋に入れ。もう研究所入り口だ」
「ハニーが抱えたまんまじゃダメなのか?」
「……。オイ、ソイツを抱えたまま、姿を消して移動できるのか」
ローの目線が彼女に向いた。
彼女は僅かに身を強張らせた。周りは雪景色だというのに、手に汗さえ滲んでいる。
ただ彼女のほうを見ただけだが、彼の目つきでは見られたほうはそれだけで睨まれた気分になる。
彼に胸をときめかせる女の子はたくさんいるだろうけれど、その胸の高鳴りは吊り橋効果もあるんじゃないだろうか。
アブナイ雰囲気に惹かれて、落ちたのは谷じゃなくて恋でした、みたいな。無いか。
まるで緊張感のない思考を巡らせて、彼女は動揺を表に出すまいとした。
二年前は顔をよく見られなかった。あの状況でそんな心の余裕は無かった。ましてや胸をときめかせるなんて、不謹慎でできなかった。
オジサマはともかく同い年で髭を生やしている人なんか全く好みではないのに、髭さえも彼の美貌に一役買っていると思えてしまう。
当然といえば当然なのだが、ドストライクすぎた。
男なんかいくらでも相手してきたというのに、目を合わせるだけで照れるなんて、何年ぶりだろうか。
目を逸らさず動揺を隠しきることに成功した彼女は、淡々と答えた。
「できないよ。わたし単体なら、短い時間消えていられるけど。他の人を消すのは無理」
「なら消えてろ。ソイツは袋に入れてカモフラージュする」
「消えてろって…本当、傷つく言い方だなあ……」
「ハニー、どうしたんだ?」
「何でもない。はーいチョッパーくん、袋に入りますよ〜」
「おれもう十七だぞ!子供扱いすんな!」
「お前ら黙れ」
チョッパーの入った袋を刀に吊るしてローが肩に担ぐ。
猟師の獲物みたいだ、とハニーは思った。
侵入作戦はシンプルだった。
ローが言うには、メイン研究室にはシーザーともう一人、女性がいるらしい。ローが二人を連れ出し、その隙にチョッパーとハニーが研究室で子供達に関係する薬の事を調べる。
チョッパーについてきてよかった。ハニーはほぅ、と溜息を吐いた。
ローとは別行動になるのなら、動けないチョッパーの面倒を見るのは彼女だ。これ以上の適役はないだろう。
どうせシーザーを誘拐するのなら、完全に実力行使にするのではなく顔見知りであるローが騙して捕らえたほうがいいのではないかと思うのだが、ローにはそれができない理由があるのだろう。
不必要なことは話してくれない人だ。訊いてもきっと答えてくれないだろうから、とハニーは何も言わないで作戦に乗った。
ほぼロー任せの作戦で彼女にも申し訳ない気持ちはあったが、パンクハザードについて彼女が知っていることは圧倒的に少ない。
一時はそこにいた一味ほぼ全員が反対した同盟だが、やはりローを味方につけておいてよかったと思う。
さて、とハニーが能力で姿を消そうとした時。
「“闇” っ……」
「ど――――――ん!!!」
声を発したが、大きな声に遮られた。
「マスター出て来――――い!!!お前をブッ飛ばして誘拐してやるぞォ〜〜!!!」
あの楽しそうな声は、ルフィだ……。
半ば彼女の予想通り、彼は戦闘が派手なところに突っ込んでいったようだ。
隠密とは真逆の位置にいる彼のことだから単純な発想をしたのだろう。
探し人がいるなら人が一番多いところに行けば見つかると思っている。人を隠すなら人の中と謂うからその考えは間違いではないのだろうが、そんなウラは全く考えていないのがルフィであった。
あのバカ誰が全軍相手にしろと言った!?とルフィの行動に驚き呆れているローに、ハニーはやれやれと思った。
細かい指示を出さなかったローが悪い。『シーザーを誘拐しろ』だけで、内密に行動しろと言わなかったローの確認不足だ。内密にしろと言ったところで、それができない人なのだから。
たとえ細かく指示されていたとしても全部無視で突っ走るのがルフィだから、…いやそうすると、ローは全く悪くない。
彼が悪いというのなら、それは彼の無茶苦茶な性格の一端を垣間見てなお自分の思い通りに動くと思ったことだ。
きっとハートの海賊団の部下達は優秀で、ローが一言声を掛ければ即理解して即行動する人達ばかりなのだろう。しかしそれを余所に求められても困る。
チョッパーがいなくなって空いた両腕を組み、彼女は顎を逸らした。
「私の大事なルフィをバカって言うのはやめてくれるかな」
ルフィをバカと言われたことが彼女の気に障った。
確かにルフィは考えなしだ。
だがだからこそ強いのだし、それを補うように麦わら海賊団は頭の良い人ばかりだ。
常に全体を見ているサンジ、海や天候の事ならナミ、医学に特化してチョッパー、言わずもがなロビン、比較的常識人ウソップ、フランキーもああ見えて頭を使う。
船長をバカにすることは船員をバカにすることだ。出会って数時間のローに何が分かるというのか。
要するに、身内に馬鹿にされるのはいいけど余所の人に言われると業腹なのであった。
ギッと効果音が付きそうなほどローに睨まれて、先ほどの比でなく彼女の体が強張る。
引き結んだ唇の隙間から一体どんな暴言が滲み出てくるのやらと、気取られないよう身構えた。
「なに、まだ怒ってるの?ごめんって。でもあれはきみが煽ったからでしょ」
「二年前と随分態度が違うな。もっと大人しい女かと思っていたが」
「残念、元々こんな性格だよ。あの時は……動揺してただけ」
「……」
ざく、と足元で氷の粒が砕ける。ローが近づきハニーの顎を捉える。
鋭い眼光の中に、さっきも見た欲の色が混じっている。
彼が何をしようとしているのか分かって彼女は頭を逸らすが、彼がより強い力で顎を固定しただけでその意味はなくなってしまった。
背の高い彼に至近距離で顔を上げさせられ、彼女は首が痛いと顔を顰めた。
自然、足が後ろに下がってしまいそうになるが堪える。
せっかくさっきやり込めたというのに、ここで一歩でも退く姿勢を見せたらアドバンテージを失ってしまう気がしたからである。この世界はハッタリも重要なのだということを彼女は身に染みて分かっていた。
ローが屈んで、少し顔を傾ける。
「…そういうのは、恋人同士が二人きりの時にするものでは?」
「動けねェ動物一匹、数に入れねェよ」
恋人同士が、の部分は無視ですか。
酷い言い草だ。チョッパー、抗議してやれ。そしてこの雰囲気を壊してほしい。
彼女はそう願うものの、動物と言われた彼はローの背後の袋の中で大人しくしている。
非常食呼ばわりされたこともあるらしい彼だから今更動物と言われたところで気にしないのかもしれないし、先ほどハニーが子供扱いしたから大人っぽく空気を読んでいるのかもしれなかった。
――――なんてことだ。助けは来ない。
「…やめて」
何とか彼に穏便に諦めてもらおうとするものの、しかしこの状況で彼女に良い案は浮かばない。
結局口を衝いて出たのは、シンプルな拒絶だった。
間近に迫ったローの唇を間一髪、手で覆い止めると、彼は不機嫌さを隠そうともせず唇に掌を受けたまま荒々しく口を開いた。
「操を立てる相手も、もういねェだろ」
「は?」
「火拳屋の女だったんだろう。…弟を代わりにしているとは思えねェが」
「…下衆な男」
彼の言いたいことが分かって、不愉快になる。
火拳屋とはエースの事だろう。どうやら、昔の男に貞操を誓っているからローを拒むのだと彼は思っているらしい。
下衆の勘繰りにも程がある。
動揺していたのも忘れて、スッと彼女の頭が冷えた。
他人に彼女とエースの関係を邪推されたことが純粋な彼らの絆を汚されたように感じて、気に障った程度で済まされるものではなかった。
ましてやルフィをエースの代替品として愛しているだなんて、そんな発想が出ることすら不愉快でならない。
エースはエースで、ルフィはルフィだ。
確かに、彼女はたまに――――いや、結構頻繁にルフィの中にエースを見ることはあるが、彼女はそれぞれを大切に思っている。
彼らを誰かの代わりにすることなど、そんなことができるはずもない。
それに。まるで彼女に愛した相手がいなければ、何の抵抗もなくローのキスを受け入れたような言い方に彼女は更に腹を立てた。
そんなに自分に自信があるのか。
随分と女にちやほやされて生きてきたようだ。憎らしいことこの上ない。
「きみをそんな子に育てた覚えはありません」
「育てられた覚えなんかねェよ」
「……」
こんな体勢では何を言っても一蹴される気がする。
彼女は内心怒りながらも、この状況をまずどうにかしたかった。
とにかく会話でお茶を濁して、作戦を早く始めようと急かすしかないだろうか。
そう考えていると、未だローの唇を覆ったままの彼女の手を突如、ぬるりとした感触が這い上がった。
「――――……ッ!」
詰まるほど息を吸い込み、既のところで、声を抑える。ローの悪い口を押さえるのに使っていないほうの手で咄嗟に自分の口も覆う。
弾かれたように見上げると、ずいぶんと悪い笑顔と目が合った。
口を塞いでいるのをいいことに、ローがハニーの手を舐めている。指の付け根を舌が這うと、ぞくりと背筋を刺激が駆け抜けた。
意地悪に笑った目が彼女の目を見つめ離さない。舌をぬるぬると動かしながら、彼女の反応を見ている。
手を退ければ口づけが降ってくる。このままでいれば指の間というマニアックな場所から快感を押し付けられて、声が漏れたらきっと笑われるだろう。
先ほどの意趣返しだろうか。怒りに任せた行動を誤魔化すついでに揶揄ってやろうと思ったのが間違いだった。
彼女は、彼が意外な行動に出たことで、いつもの調子が出せないでいた。
「ロー、ローさ、ん。一回落ち着こう、ね?」
「……」
「ッ、…いや、ってば」
「……ン、」
「いいかげんに……ッふぁ、」
「……フフ」
ついに甘い声を出してしまった瞬間、ローが笑った。
思惑通りにいったということか、彼女の手は解放された。
彼女が彼の口を塞いでいたというのに解放されたのは彼女の方だったことが、彼女の動揺を更に煽る。
彼の顔が本来の位置に戻っていく。顔を逸らしてしまったのは、彼の頭の位置が高いからだ。負けたと思ったからでは、決してない。
ローの背に隠れて見えないが、彼の後ろにはチョッパーがいるというのに、指を舐められただけでなんて様だ。いやチョッパーがいなかったら指を舐められてもよかったのかと言われれば、そんなことは決してないのだけれど。
悔しそうに唇を噛んだ彼女を、彼は満足そうに見下ろした。
男を手玉に取ってきた彼女のプライドは傷ついていた。
今までこんなにプライドが高い上に、やられたら絶対やり返すマンかつ自信たっぷりに色事に誘ってくる男を彼女は見たことがない。
こんな男は知らない。
「ッそもそも、エースとはそういう関係じゃない。それだけはご承知おきいただきたいな」
ニヤニヤと自分を見下ろしているローに耐え切れず、誤魔化すように語気を強めた。
ローは誤解しているようだが、エースと彼女はそんな男女の仲では決してなかった。
彼女とて、彼を男として見なかったわけではない。しかし彼の船に乗ったのは不可抗力だったが、彼の船を降りたのは彼女が彼を人間として尊敬していたからだ。
そこまでの事情を説明する気は無かったが、ローにそのまま誤解されているのはエースへの純粋な尊崇を汚されているようで気分が悪かった。
「彼とは、そんなんじゃない。尊敬していたし――――弟のように、思っていたけれど」
「未練は無いと」
「だからそんな関係じゃないんだってば」
しつこい男に辟易する。
二年前、エースを失って泣いただけでよくもここまで妄想をこじらせたものだと。
エースは皆に愛されていた、啼泣する人もいたし泣かずに心中に悲しみを押し込めた人もいた。彼女は泣かずにはいられなかった一人だった、それだけの事だった。
エースを大事に想っていた人は大勢いる。彼女だけの彼ではなかったし、彼だけの彼女でもなかった。
ただ彼らの性別が違ったというだけのことで何故下衆の勘繰りをする輩が後を絶たないのだろう、と彼女はローに限らず、これまで同じようなことを言ってきた人たちに改めて苛立った。
彼女にそんなことを言ってきたのは、そのほとんどが男だった。それも、彼女に対して下心のある人間ばかり。
自分の欲望を叶えるために人の関係にずかずかと土足で入るような言動を、彼女は何度も否定してきた。
否定できる人間は、もう彼女しかいない。エースはもういないから、彼らの絆を守るのは、彼女しかいなかった。
「なら、問題無いな。島を出たらお前を抱く」
「文脈ってご存知?」
彼女の機嫌を損ねるかどうかはともかくとして、どいつもこいつも人の話を聞かなすぎる男ばかりである。
世の中には人の話を聞くと船長になれないルールでもあるのかと本気で疑いたくなるくらいであった。
雰囲気も会話の流れも丸ごと無視して言われた言葉に、ハァ、と彼女の口から溜息が漏れる。
似たようなセクハラを受けたことは数知れないが、ここまで露骨な誘い文句はなかなか無い。
この男、やはり今まで女には苦労したことがないようだ。
恋人の有無に関わらず、誰しもが彼と肉体関係を結びたいわけではないということに思い至らないものか。
「いいかな、ロー」
いつまでも人の顎を掴んでいる不躾な手を払いのけ、一歩下がる。
乱暴に払われたからか、不満そうに睨んでくるローを彼女は真正面から見つめ返した。
「エースと関係があろうと無かろうと、同じだよ。わたしは、何があっても絶対に愛しきってくれる人じゃないと嫌なの」
ローは知らない。彼女がどんな人生を歩んできたのかを。
外見だけで寄ってくる男は、その全てが例外なく身体目当てもしくはアクセサリー感覚だった。
ローにとってたった数回会っただけの女の中身に、どうして惚れることができるだろうか。
しかも『好きだ』とか『付き合ってくれ』もすっ飛ばして『お前を抱く』だ。身体目当てなのを隠そうともしない。
「宣言する。きみはわたしを本当の意味で愛すことはできない。すぐにわかる」
強い眼光がローを射抜く。
先ほど彼に食って掛かった時の目と同じ、そこには怒りが表れていた。
メリットも無いのに、中身を好きになってくれない人に身体を差し出すつもりはない。特にこんな男には。
身体を重ねるだけの恋愛ごっこなど、数えるのも億劫なほどしてきたのだ。
――――わたしも大概であるからして、自分の事を棚に上げて彼の過去を批判することはできないけれど、わたしにも選ぶ権利がある。
「…ガキ臭ェことを」
「悪かったね。そう思うならもっと大人の女性を見繕えばいいよ」
ガキで当然だ。子供の頃にした恋を、今も引き摺っているのだから。
彼女の表情から自嘲を感じ、何か思うところがあったのかローはさらに何か言おうと開きかけていた口を閉じ、納得できないとばかりに首を振る。それから一つ溜息を吐いて、研究所に足を向けた。
ローは彼女がそれなりに経験豊富であることを見抜いていた。彼女は隠そうともしないので、先ほどの背中への反撃や態度で、すぐに分かった。
なのに。
既に性欲と裏切りが付き物の世界に染まり切っているくせに、未だ無垢な夢見る少女のように、絶対の愛を信じて探している。
そんな矛盾した自分を、彼はどう思っただろうかと、ハニーは下手に口を開いたことを後悔した。
彼にはつい口が過ぎてしまう、余計なことばかり言ってしまう。この男にそんな話をする必要は無かったと彼女は唸った。
呆れられたか、興味を失われたか。
冷静を欠いた言動に、彼女は自分が彼に迫られて思ったより動揺していることに気づく。
こんなことは今までいくらでもあったのに、彼に対してはどうも上手く事を運べない。
頭を冷やすために首を振ると、後ろを向いたローの背中にいつの間にか吊られていたチョッパーが心配そうな顔をした。
そんな変な顔をしていただろうか。
大丈夫だよ、自分に言い聞かせるようにそう言って、彼女も二人の後を追った。
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海獺