ぽす、と頭にキャスケット帽が乗る。
ヴェルゴに殴られた拍子にSAD製造室の柵の向こうへと落ちていったものだ。
帽子は今ふわふわと独りでに宙を舞い、意志があるかのように持ち主である自分の頭に戻った。


「…返すモンはそれだけじゃねェだろ」


ヴェルゴを倒すまで気配を殺していたハニーは問いかけを無視した。あくまで口きかぬ浮遊霊でいるつもりらしい。

ハニーがいることには気づいていた。姿は全く見えないが、どこからかその気配は感じたのだ。

シーザーに捕まり檻の中にいた時も、常にどこかから見られている気がしていた。
試しにメモを転がしてみたら、彼女が能力を使って消えた時のようにそのメモも黒い霧の向こうに消えたことで、気配の正体を確信した。

そこから暫く、気配を探っても彼女が感じられなかったのはトニー屋について別行動をしていたからなのか、それとも気配すら感じられないようにできるからなのか。
ニコ屋が言ったように、なるほど隠密には便利な能力だ。
ほとんどの者には存在を感知されないし、気配を感じられたとしても場所までは掴めない。もっと見聞色の覇気が強ければまた違うのかもしれないが。

姿を消してヴェルゴに攻撃するつもりか、やめておけ――――忠告するまでもなく、ハニーは最後まで戦闘に加わることは無かった。
覇気を使えないものが存在を気取られても、デメリットのほうが大きくなるだけだ。

賢しい女。必要以上に煙を散らして戦っていた白猟屋と目が合い、悟った。
ヴェルゴに相対する前に白猟屋と取り決めていたのだろう、おれの心臓を奪い返す手法を。

心臓を握られていないおれならヴェルゴに勝てると確信していたのかリスクの高い賭けだったのかは知らないが、白猟屋が現れる前から、おれの心臓を奪取しおれにケリをつけさせるつもりだったようだ。
利用されて腹立たしい反面、どちらが提案したかはわからないが、おかげで助かった上に、自分の手で因縁の男に引導を渡すことができたと言わざるを得ない。

言わざるを得ない、が。


「おれの心臓を返せ」

《……》

「オイ、てめェ……」

「ロー、脱出が先だ!この部屋はじきに吹き飛ぶ、そうだろう」

「チッ」


スモーカーに促され、部屋を出る。

自分の心臓は大事だが、敵に渡ったわけじゃない。
ハニーは……一見弱弱しい控え目な女だが、おそらく多くの修羅場をくぐり抜けてきている。
人をよく観察していて、どこまでならブチ切れられず許される行為なのか計算して行動している。
天性にしても経験にしても、熟練度は相当だ。先ほど自分がしてやられたからというわけではないが。

彼女はどうも自分に突っかかってくるきらいがある。
照れ隠しなら可愛いものだが、そんな雰囲気ではない。

かといって嫌われているわけでもなさそうだ。わざわざ危険を冒して、本来敵であるはずの海軍を連れ仲間の元から離れてこの場に来たのは、おれの身を案じてのことだろう。

彼女が何をしたいのか、おれにどうして欲しいのかが読めない。
こんな女は初めてで、今まで真剣に異性と向き合った経験がないことが仇となっている。
どうにか彼女の思考を読んで上手く操りたいものだが。
女に振り回されるのを喜ぶような性分ではない。

それはともかくとして、今は脱出だ。

麦わらの一味である彼女がおれの安全確認を仲間より優先することはないだろうから、麦わら屋達はおそらく全員無事だ。なら今は早く部屋を出て、シーザー屋誘拐の首尾を確かめなければならない。奴の誘拐は作戦の肝だ。

彼女が姿さえ現せばどうとでもなる。
心臓を返さない理由は分からないが、後でじっくり締め上げればいい。


「おい、白猟屋!こっちだ!」


そう言って、研究所内を探索した時に発見していたトロッコの方に誘導する。

研究所にはガキもいる。ガスから逃れ全員で走って脱出するのは愚策だ。
ガキの身の保証はおれの知ったことではないが、そうするとまた文句を言い逃げない奴が現れるだろう。きっとハニーもそうだ。
多少手間取ってもトロッコに乗せて全員で脱出した方が、トラブルが少なくて済む。

自分でやっておいて言うのも何だが、ぶった切った研究所中の切れ目からガスが研究所内に侵入しているはずだ。脱出は一刻を争う。ジョーカーが何を仕掛けてくるとも限らない。
ここから先は、時間との勝負だ。

――――おれもまだまだ甘い。

今の自分なら、ヴェルゴを斬れると分かっていた。
しかしコラさんを殺した一因である奴を前に、必要最低限の力を見極めることができなかった。
奴と周りのSADさえ斬れればよかったものを、つい力が入って研究所全てを斬ってしまった。

SADを運び出すためのデカいトロッコを引き、麦わら屋達の方を目指す。
白猟屋の煙とは全く違う、黒い霧が薄く線を描いて通路の奥へ伸びていく。
奥から微かに声が聞こえる、あちらの方に彼女の仲間達がいるはずだ。


「麦わら屋!! シーザー屋はどこだ!!」

「トラ男!ケムリン〜〜〜!!無事だったかァ!!」


シーザーならあっちの方へブッ飛ばした、とヘラヘラ笑う男に焦りと怒りがこみ上げる。

計画を何だと思っている。ここで奴を取り逃がしたら何年もかけた作戦が全てお釈迦だ。
それどころか、何のメリットも得られないまま今度はこっちがドフラミンゴに狙われることになる。

この男と同盟を組んだのは失敗だったか。こんなにも思い通りに動かないとは。


「んな怒んなよ、あいつすげェイヤなやつなんだ。あんなやつもう捕まえんのもイヤだおれ!!」

「イヤでもそういう計画だろうが!!もし逃げられたらどうしてくれる……!!」

「ルフィ、気持ちはわかるけど、きみだけがブッ飛ばしてスッキリしてもダメだよ?ローは子供達を助けるのに一生懸命協力してくれるでしょう。ならわたしたちもローに協力しなきゃ!みんなが嬉しいほうがいいでしょ?ね、みんなで一緒に追いかけよう?」

「ハニー、お前な……。ルフィをそこまでガキ扱いしなくても、さすがにコイツも理解するぞ」

「イヤだ!むかつく!!おれの船に乗せたくねェ!!」

「理解しねェのかよ」

「ロロノア屋、お前ンところの船長何とかしろ!!あァもういい、とりあえずさっさと全員トロッコに乗せろ!!脱出する!!」


麦わら屋を説得する時間もぬけぬけと姿を現したハニーに詰問する時間も惜しい。脱出する先もシーザー屋が吹っ飛ばされたらしい方角もどうせ同じだ。

海賊共に比べて素直に言うことを聞くガキ共を先にトロッコに乗せる。
白猟屋が戻ったことで統率が取れだした海軍が、率先して動いたのは助かった。

それに比べて無法者、ガスが迫ってきているというのに、トロッコに乗ろうともせず、仲間が揃うまで待つと言う。シーザー屋を確保しなければという焦りは自分のものだけだとしても、ここは危険だと言っているのに。
置かれた状況を理解しているとは考えにくい行動に呆れる。効率や計画より感情と気分を優先するこいつらに頭が痛くなった。
焦りもあって、つい声を荒げてしまう。こいつらに会ってからこんなことばかりだ。


「どわああああ〜〜〜!!!間に合った〜〜〜!!!」

「ウソップ!!ブルック!!チョッパー!!サムライ〜〜〜!!?揃ったな!!トロッコ乗れー!!」


何とかガスが到達する前に研究所内の全員が揃い、漸くトロッコに乗り込む。
全員揃うとさらに騒がしくなり、思わず耳を覆う。
全員が乗ったのを確認してトロッコを発進させた。

トロッコはすぐに最高速度に達した。風を切って走り出すと、不安定にガタガタと揺れる。

トロッコの中心には怪我人や意識を失った者が集められていて、元気な者、戦闘力のある者が自然に端に寄った。
走り抜ける通路は山腹に掘られたトンネルで、あちこちで起きている爆発で瓦礫が落ちてきており、生き埋めもありうる危険極まりない状況だ。

瓦礫の対処は麦わら屋達に任せてトロッコ内に視線を走らせると、伏せた怪我人達を挟んで反対の端にいたハニーと目があった。


「オイ、いつまで持ってるつもりだ」


トロッコの音で、反対側にいるハニーにはきっと声は届いていない。
口の動きだけで何と言ったか正確に理解できるとは思っていないが、それでもおれの言いたいことくらい分かるだろう。

にっこりと笑われる。
満面の笑みなのに悪い予感しかしない。
なぜこの状況で笑う。

笑顔のまま、首までぴっちり止められたブラウスのボタンを外して胸元を探り、ハニーが取り出したのは、おれの心臓だ。
ヴェルゴとの戦いの後、落とした帽子はすぐ返されたというのに心臓は何故か返されなかった。

この女は予想を超えたことをしでかすから、何かされる前に取り返したい。

今手の中にあるのは鬼哭だけで、入れ替えるものは見つからない。隣のやつは瓦礫の対処中だ。
かといって、激しく揺れるトロッコの中をハニーにこちらに来させるのは得策ではない。万一バランスを崩されて、おれの心臓を下敷きに倒れられたりしても困る。

そうすると、おれが行くしかないか。

立ち上がろうとしたところで、ハニーがおれに向かって心臓を見せつけるように軽く振った。
取りに来てみろ、か。上等だ、この女。そう言いかけて、言葉を失った。


「――――ッ!!?」


信じられない。

この女――――おれの心臓を、舐めやがった!


「テメ…ェ、くッ」


ぞわぞわ、と心臓があるべきはずの胸が痺れる感覚がした。
心臓を掴まれた時のような激しい痛みではない。不快感でもない。
むしろこれは、認めたくないが、快感に近い感覚。


「く……、ぁ、」


目論見が成功したのか、おれの反応を見てハニーが笑った口元を上品に手で隠す。
服装の清楚さと相俟って、この女の所作は見惚れるほど美しい。やっていることは下品極まりないというのに。

睨みつけてもハニーは止めようとはしない。むしろエスカレートし、今度は心臓を唇で柔く食んだ。
もどかしくも甘い痺れがおれを襲う。

これ以上、あの濡れた唇を見てはいけない。そう思っても何故か目が離せない。

両手で掬うように心臓を口の前に掲げ、慈しむように、何度も何度も唇で食んでは、舌でなぞり、キスを繰り返す。
その表情があまりに煽情的で、情事の際の口淫を思い浮かべずにはいられなかった。


「ッぅあ……!?」


立方体に切り取られた心臓の角。
そこを赤い唇が包み込み、軽く吸った。まるでおれ自身の先端を吸うように。
ついに、下半身に突っ張ったような違和感を覚えた。

クソ、ああ、クソ!まさか、こんなところで反応させられるとは!

おれの状態に気が付いたのか、ハニーはさらに、軽く閉じた唇の間に角を含んだまま、ぐり、とその角を舌で強めに押しつぶした。
そうして暫く弄んだ後は、唇から離して、ちろちろと舌で弱い刺激を与える。そしてまた吸い付く。
正直なところ、これはたまらない。

心臓じゃない、下半身に同じことをしてほしい。

こんな状況じゃなかったら。
こんな状況じゃなかったら、もっとしてほしいと思っただろう。
しかしここは他に人の目がある、無事脱出できるかもまだわからないトロッコの上だ。

これを続けられたら、もしかしたらイッてしまうかもしれない。それはさすがにまずい。こんなところで果てようものなら、ドフラミンゴを討たずして慙死するに違いない。


「は、ァ……」


ぷちゅ、とこの距離で水音さえ聞こえてきそうな愛撫に、挑発的な視線に、限界だった。


「……ッ“シャンブルズ”!!」


他に方法がなく、観念して鬼哭と心臓の位置を入れ替えた。

おれの手に自身の心臓が、ハニーの手に鬼哭が渡る。
性的な連想をさせる艶めいた表情から一転、あらら、とでも聞こえてきそうな間の抜けた顔でハニーは鬼哭とおれを交互に見た。

決めた。コイツ絶対、大勢の前で辱めてやる。

乱れた息を整えながら、これ以上何かされる前に、この島に来てからいろんな意味で散々な目に遭った心臓を急いで自分の胸に格納する。

文字通り心臓に悪い体験だった。目的を達成するためとはいえ、この手段はもうあまり使わない方がいいかもしれない、そう思った。
まだこちらを見ているハニーに、おぼえてろ、と口の形で怒りを伝える。


「……」

「……」


理解していないのか理解した上での行動なのか、視線はおれを捉えたまま、ハニーは手に持った鬼哭をも、べろりと舐め上げた。
心臓と違って感覚こそ繋がっていないが、おれが愛用する、死の外科医の象徴とも謂える、黒くて固くて長い、刀の鞘を。


「テメェ本当いい加減にしろ!!!」


突如大声を上げたおれに、周囲を警戒していた周りの奴らが一斉にこちらを向いた。

予想外だ。斜め上すぎる。
二年間で勝手に作り上げたイメージが完全に崩壊した。
なぜこの女にそれでも執着してしまうのか、自分でもわからなくなった。



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海獺