ナミ入りのフランキーが攫われ、そして戻ってきた時には、ルフィと、それからローも一緒だった。

七武海という政府に与した実力者の称号を背負った男の登場に、麦わら一味は息を飲む。
ローは柔和とは程遠い目つきで、値踏みするように麦わら一味を見回した。
戦力を計っている。敵としても協力するとしても、出来るだけの情報は頭に入れておきたいという考えだ。一味はほぼ全員が賞金首。それなりの実力はあると見てよい。
ハニーの姿もしっかり捉えていた。
前に見た時とは違って、目が赤い代わりに、寒さからか頬が赤い。
しかし二年前の今にも消え入りそうな雰囲気はどこにもなく、元気にはしているようだとローは溜息を吐いた。

ローの鋭い目線と不穏な雰囲気にざわつき、恐怖さえ滲ませる仲間たちの表情を見たからか、またトラ男が助けてくれたんだよ〜!!とルフィは快活に笑った。
だからそう警戒するなということなのだろうが無理がある。
ルフィは知らないが、他のメンバーは知っているのだ。
ローが、海賊の心臓を百個届けることで七武海入りした男だということを。それは狂気の沙汰であり、一体どんな人生を歩めばそんな発想ができるのか皆理解できなかった。
人間は強いものを恐れるのではない。理解できないものを恐れるのだ。

しかしそんな中、ハニーだけは反応が違った。
ローと共に戻ってきたルフィを労う暇もなく、ローに詰め寄る。


「ねえ、キミ」


近づこうと思っていた女が向こうから近づいてくるものだから、ローは驚いた。
近づくというのは人のパーソナルスペースに入り込むという意味であって決して物理的な意味ではなかったのだが、物理的な意味で近づいてこられても別に問題は無かった。願ったり叶ったりだ。
彼女が怒りに歪んだ顔をしていたとしても、それは変わらない。


「キミまさか、子供たちの実験に、関わってるんじゃないでしょうね……!?」


唸るように、ハニーがローに詰問する。
彼女の手はローのコートの合わせ目を強く握っていた。襟首を掴むにはローの背が高すぎて無理があったので、胸のあたりをだ。それでも、ハニーの拳は彼女の顔と同じ高さにあった。

子供に麻薬を与えて、人体実験の被験者にした。ローの異名は“死の外科医”。いかにも非道な研究に携わっていそうなイメージである。
一味もハッとした。この悪魔の所業。残虐で名の通った男の関与が一味の頭を過る。

しかしローはそれを即座に否定した。
彼は医者であり、その矜持がある。
この島にいたのだから疑われるのは仕方のないことだと思ったが、こんな悪趣味な真似をしている奴らと一緒にされるのは心外だった。
自分のしていることが崇高だなんて考えも無かったが。


「一切知らねェ。しかしおれが関わっていたとして……お前、そうしたらどうするつもりだ?」


仕返しというわけではなかったが、ローがハニーに煽るように問うた。

どうするつもりだった。何ができるつもりだった?

近くで会ってみると、怒りを滲ませて詰め寄ってきた相手がそう強くはないことが分かる。
ローにハニーが挑んだとして、その結果は明らかだ。それが分からないほど愚かでもあるまいと、ローは、今日は乾いている黒い眼をじっと見下ろして、答えを迫った。

身長差が実力の差を表しているようだった。
原始的な感情を剥き出しに掴みかかってくるハニーを、ローは可愛い犬に威嚇されているような気持ちで見ていた。
まずは上下関係を教えてやる。そんな気持ちで。


「……」

「……」


睨み合う。
ウソップが遠くから、オイハニーやめとけ何されるかわかんねェぞ!と叫んだ。


「……。ごめんなさい…八つ当たり、だった」


数秒の睨み合いの末、折れたのはハニーだった。
目を伏せて謝罪の言葉を発する。
睨み合いで先に目を逸らすのは、負けを認めたことを意味している。


「……」

「疑ってしまって、ごめんなさい……」

「……」

「…怒ってますか?」

「……」

「どうしたら……許してくれますか?」


黙りこむローに不味いと思ったのか、機嫌を取るようにハニーが次々と言葉を発する。
素直すぎて面白みがない。とローは思った。

簡単に自分に従われるより、ローはもっと、反抗するのを抑えつけて、それでも自分に従わざるを得なくする方が好みだ。
いきなり噛みついてくるくらいだ、今更怖気づいた訳ではあるまい。見た目より精神年齢は高いのか、自分の非を認めて素直に謝るハニーにローは物足りなさを感じた。

そんなローの感情はよそに、ハニーは彼のコートを握りしめていた手を緩めて、自分が付けてしまった皺を伸ばすように優しく撫でた。
分厚いコート越しでその感触はあまり胸に感じられないが、今ここには無い筈のローの心臓が、どくんと波打つ。

――――なんて顔をしやがる。

目をゆっくりと細めて許しを請うハニーの表情は、非常に煽情的だった。

困ったように寄せられた眉、寒さで紅潮した頬、潤んだ瞳、震える睫毛。
見下ろす彼女の姿が、想像していた姿よりも何倍も妖しい色気を放っており、ローは思わず、喉を鳴らした。もっと虐めたくなる顔だと。

それでも無表情を保つローに対して、ハニーは不安を表すように口元に手を遣った。
唇に指が触れたのを見て、ローはそのぷっくりとした唇から目が離せなくなる。
少しだけ空いたその隙間に舌を入れたいと思うのは、男として避けられなかった。

不意に、ハニーが唇から指を離して、その指はローの顔に向かう。
ゆっくりとした動作が二年前の彼女の姿と重なる。ローの頬骨を、掠めるくらいの力で、人差し指の背が撫でる。

ローが意図を量るためハニーの目を見ると、その視線はローの唇に向かっていた。
彼女もまた、ローの唇から目が離れないのだと思うと、ローはこの後の展開を期待せずにはいられなかった。

ゆ る し て く れ ま す か ?

ハニーの唇の形が変わるのが、スローモーションのように、ローには見えた。

誘うように滑らかに蠢く唇に対して行うことは、決定事項だった。
当然の行い、世界の真理のように思えた。

ローがハニーに顔を近づけるのと同時に、ハニーが目を閉じる。

拍子抜けだな。

二年間、頭から離れなかったこの女も。
他の女と同じで、簡単に手に入るモンなのかと、欲望の片隅でローが少し残念に思った瞬間――――


「ガブリ」

「ッ、ぁ……ッ!?」


唇が触れ合う寸前。ぞぞぞ、とローの背中に嫌な刺激が這い上がった。
ローは瞬時に後ろを振り向く。一瞬、敵の攻撃かと思ったが、気配も感じなければ何もいない。白い光景が広がっているだけだ。

となれば、犯人はローの目の前にいる女しかいなかった。


「そうだね、キミが関わっていたとしたら、こうするよ。ナイフを手にしてね」

「……!!」


――――やられた。この女。

ハニーは今しがたローの背中を這った右手を、うぞうぞと見せつけるように動かしてみせた。

その顔には先ほどまでの色香は無く、ニヤニヤと、まるで悪戯好きな子供みたいに、意地悪な笑みが貼りいている。
そればかりか、得体の知れない男に射殺さんばかりに睨みつけられているというのに「背中弱い人って好きよ。からかいやすくて」と言ってのけた。

ローはハニーを舐めきっていた。弱弱しい、泣き虫な女だと。完全に油断していた。

しおらしい謝罪から演技だったか。

今更ながらローは気づく。ハニーは視線の使い方も、意図したところに意識を向けさせることも狙ってやっている。
唇を意識したせいで、ローの胸に置いた手が消えたのも、それが背後に回っていたのも、ローは気づけなかった。

ローはまんまと騙されたことに歯を食いしばりながらも、口の端にうっすらと笑みが浮かばせる。
一筋縄ではいかない女だったことを嬉しく思った。
こうでなければ面白くない。ハニーはローの想像では掴みきれない人物であった。

このお礼は必ずする、とローは心の内に決意する。

してやられた後だ。何を言っても負け惜しみになるような雰囲気が出来上がっており、口に出すことなどできない。
彼女を益々手に入れたくなったが、関係は自分の方が上でなければならないと、ローは思っている。そういう人間なのだ。仕返しをせずに済ませる選択肢はない。

このタイミングで、うずうずしていたルフィが“ハートの海賊団”と同盟を組むことを発表したが、一味は反対だった。特に気弱組が。

ノリでなんでもかんでも決めてしまうルフィに慣れている一味でも、さすがに今回は難色を示さずにはいられない。
人の人格を入れ替えることができる男だ。刀の一振りで人体をバラバラにして、それでも死ねない体にしてしまう男だ。
味方であれば、これ以上便利で(面白いことができて)心強い男もそういないだろうが、それは心から信頼できる場合の話。
裏切らない保障も無いのに、同盟だから友好的な関係をこの先保っていかなくてはいけない。ならばいっそ敵の方がマシというのが、一味の考えだった。

しかし、おれには頼もしい仲間がついてるから大丈夫だと豪快に笑ったルフィを見て、一味は完全に乗せられてしまった。嘘を吐かないルフィの言葉は、これ以上ない説得力があるのだ。
唯一冷静に裏切りの可能性を指摘していたロビンも、ハニーがローを翻弄する様子を思い出したのか、薄く笑って同盟に同意した。
こうして、麦わら海賊団とハートの海賊団は、海賊同盟を組んだ。


「“シャンブルズ”」

「ウオ〜〜戻ったぜェ!!やはりおれはおれに限る!!!」

「よかったわねフランキーもうチョッパーの体には入らないで欲しい。二度と」


二度と、を強調してロビンがフランキーに一息で言い切る。
いつもの可愛いチョッパーに戻ったのでロビンは心から安堵したが、反面、普段は個性だからと気にもしないフランキーの性格とガサツさに苛ついていた。
外見と言動が一致しているから許せるフランキーの性格だったが、チョッパーという可愛い容れ物に収まってみると、その生理的嫌悪感は元の体の比ではなかったのだ。
戻ってよかったと思っているのは貴方だけではない、その変態さをもう少し隠す努力をしてみたらどうかしらという皮肉でかけた言葉だったが、フランキーにそんな繊細な言外の遣り取りはできないのでロビンの思いは届かなかった。

そして可愛い容れ物本体は、目を離した隙に動かないほどのダメージを負わされた自分の体に怒っていた。
チョッパーの体でフランキーが暴走し、ルフィが大人しくさせるために大技で仕留めたのだ。“怪物強化モンスターポイント”の代償とルフィの攻撃で、チョッパーは暫く自力では動けなくなってしまった。

子供たちの様子を見たがるチョッパーを制して、代わりにハニーが子供たちを気にかける。
その横でルフィが気軽に「助けてェんだコイツら」と言った。
言われたローは、わざわざ無償の人助けをするつもりはなく、断った。

逃がすだけでもお荷物になるのに、助けるには治療が必要だ。
何をされたか分からない、どんな薬物をどのように投与されたかも分からないので調べるのに時間がかかる。
時間がかかるだけではない。シーザーの目を盗んで、警備が厳重であろう研究所に忍び込む必要があった。

そんなことをしている時間はない。ローは早く目的を達成して、この島から出て、次の仕掛けに移りたかった。
彼が十数年に亘って考えてきた計画が、今実行に移せる段階まで来ているのだ。
恐怖などもはや消え、成功した時のことを考えると体が震える。
こんなところでまごついていたくないというのが、彼の本音だった。

しかし、麦わら一味は、船長を筆頭に、そうそう自分の考えを曲げない。
特に今回、ナミは退くわけにはいかなかった。


「この子たちに、泣いて『助けて』と頼まれたの。この子たちの安全を確認できるまでは――――私は絶対にこの島を出ない!!」

「……じゃあお前一人残るつもりか?」

「仲間置いてきやしねェよ、ナミやチョッパーがそうしてェんだから。おれもそうする」

「!?」


相手の船長の予想外の返事に、ローは固まった。
たった今お互いの目的が一致し、お互いの利益のために協力すると合意を得たばかりだというのに、どうしてそんな勝手なことが言えるのか。


「ね、あとサンジがお侍さんを元に戻してあげたいって」

「あーそうだよな。トラ男お前、おれ達と同盟組むなら協力しろよ!?」

「!?」


同盟に関係ない更なる身勝手な要求が続く。
船長だけではない、おそらく同盟という言葉の意味を理解しているはずのハニーも口を出した。

ルフィの図々しさに呆気にとられているローを見て、ここは勢いで乗り切ろうとちゃっかり便乗している。
ここ暫く麦わら海賊団と共に生活したせいか、自分の主張は通せるときに通さなければ一生通らないぞという思考が本人も知らない間に染みついてしまっていたのだ。

とりあえず表面上は同盟を結んだことで即戦闘状態にはならないことに安堵し、いくらか余裕を取り戻したウソップが、やれやれこれだから一見さんは困るんだ、と会話に加わった。


「お前言っとくが、ルフィの思う“同盟”ってたぶん少しズレてるぞ」

「友達みてェのだろ?」

「主導権を握ろうと考えてんならそれも甘い」

「そうなんだってよ」

「思い込んだ上に曲がらねぇコイツのタチの悪さはこんなもんじゃねェ!自分勝手さはすでに四皇クラスと言える」

「大変だそりゃー」


ウソップの説明に、一味一同、合いの手のようにウンウンと頷く。
ウソップと並んで特にルフィと付き合いの長いナミの頭には、数えきれない今までの苦労が思い出されていた。
他人事のように適当に聞き流している船長に、しかしもう少しまともになって欲しいと思っている船員は一人もいなかったが。
まともな彼など彼らしくない。全員一致でそう思っている。

言葉を失いながらも、周りの様子から、ローは自分の主張が通りそうにないことを悟る。
長く共にいた仲間でさえこうなのだ。暴力を使ったところで言うことを聞きそうにないし、使ったとしても結果は五分だろう。


「ああ…いやわかった、時間もねェ……!じゃあ侍の方はお前らで何とかしろ!!ガキ共に投与された薬の事は調べておく」


彼にメリットデメリットを説いても、理解できそうもない。成功率の低い説得に時間をかけるより彼らの要望を聞いた方が、貸しを作る意味でも、まだ無駄ではないと考えたローの決断は早かった。
頭の中で描いた作戦図に少し修正を加える。

多少面倒だが問題はない。ここは少しばかり我慢して、恩を着せてやろう。

ルフィは同盟相手なのだから協力して当然だと恩など感じそうにない、それはローも分かっていた。
しかしハニーはどうか。
二年前、今は彼女の船長であるルフィをローが救った時、ハニーは甚く感謝していた。

ローを疑って激昂するほど子供たちを救いたがっているハニーなら、ローにとっては面倒な一働きを恩に着るかもしれない。引き換えに要求したいことは沢山あるのだと、ローはほくそ笑んだ。


「船医はどいつだ…一緒に来い。シーザーの目を盗む必要がある」

「あ」


チョッパーを動けない状態にしたルフィとフランキーが、間の抜けた声を出した。
船医が誰なのか知らないロー以外が、どうしようか、と顔を見合わせる。

ローは常に刀を手に持っており、チョッパーを抱えるとなると両手が塞がってしまう。
危なっかしくて敵地でそんな状態にはさせたくない。チョッパーを間違って放り出してしまわれては敵わない。

まァしょうがねェよな…これしかねェよな……、ひそひそと話し合う一味に、ローは怪訝な目を向けた。

船医が誰か訊いただけで一体何なんだ、とローが疑問に思っているうちに、ウソップが武器袋から長いロープを取り出した。
まさか怪我だらけでそこに横たわっている変な動物が船医だとは夢にも思わないローが、状況を理解しあぐねているその間。あれよあれよという間に、彼の頭にチョッパーが固定された。


「……………………!!!」


頭の上に変な動物を括り付けられその姿を笑われるという、今までに受けたことのない扱いに、ローはぶるぶると体を震わせた。
なんという屈辱だろうか。しかし馬鹿馬鹿しくて怒る気にもなれない。

麦わら一味がローたちから少し離れたところで、堪え切れず笑っている。
チョッパーの姿が微笑ましく、皆と同じように笑っていたロビンが、ふと気づいて、ハニーに声を掛けた。


「ハニー、あなた潜入は得意じゃない?チョッパーが心配だし、ついて行ってあげたらどう?」

「そうだね。じゃあ、そっちは任せるね。皆、気を付けて」


ロビンの言葉を受けて、ハニーがローたちに向かって歩き出す。

歩きながら、彼女の姿形が、黒い霧となっていく。すうっ…と半透明になりながら、ローの頭の上にいるチョッパーの、さらに頭上に移動していく。

ロー、チョッパー、ハニーの頭が一列に並ぶ。
そして彼女の姿形が完全な霧になり見えなくなる寸前、彼女が「団子三兄弟」とキメ顔で呟いたせいで、麦わら一味の腹筋は崩壊した。
自分を対象とした、いつまで経っても治まらない爆笑を聞きながら、ローは同盟を提案したことを激しく後悔していた。



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