石畳とオレンジの屋根がどこまでも続く美しい街並みの中、市場に向かって歩く。

特に欲しいものなど無かったが、サニー号は他人の船ゆえどうも居心地が悪い。
何もすることが無いからといって船に残るのは御免だ。

パンクハザードでの出来事は突然だった。麦わらの一味と出会うなど思ってもみなかった。
いずれは実行に移すつもりだった計画とはいえ、突如降ってわいたチャンスを捕まえる形で乗った波。
果たして自分はもう誰にも止められない波を乗りこなせるか、逆に飲まれてしまうのか。ここからは自分の一挙手一投足が運命を決める。

ついにドフラミンゴと接触し、自分では冷静なつもりでいるが、奴のことになると頭に血が上ることも自覚している。
決戦前に一人になってゆっくり考える時間も欲しかったので、アルパシアで得られた誰にも縛られない時間は好機と言えた。

パンクハザードであったことを思い返していると、まず浮かんでくるのは濡れ羽色の女だ。
返す返す、良い意味でも悪い意味でも、期待を裏切る女だった。

麦わらに軽く殴られただけで吹き飛ぶ体で、よくも自分に突っかかってきたものだと思う。

度胸があるのとは少し違う。
痛みに慣れているというのは事実だろうが、彼女を表すのに適当ではない。
消極的な自傷癖とでも言うのだろうか。自分が傷つくのが当然だとでも思っているかのような、そんな考えが彼女からは窺える。

おれがもっと短気だったなら、彼女はあの場で三枚におろされていたかもしれないというのに。

いやでも、彼女は自信があったのかもしれない。おれをやり込める自信が。
事実その通りになった。
彼女は言いたいことを言い、おれは何も手が出せないままその場は流れた。

彼女は人をよく観察している。恐ろしいほどに。
それが“情報屋”たる所以か、とも思う。情報屋になるために観察眼を磨いたのか、生来の才能を仕事に活かしたのかはわからないが。

加えて、『人を見る能力』だけでなく、『人に都合の良いものを見せる能力』も秀でている。
自分にだって、何度も死線をくぐってきた自負はある。それが、油断していたとはいえいとも簡単に彼女の視線に踊らされ、意識の濃淡をコントロールされた。これはなかなかの屈辱だった。
まともに戦えばまず間違いなく自分の方が強い。比べるのも笑えるほどに。
そのはずが、たかが眼球の動き、表情、仕草だけで立場を逆転させてしまったのだ、ハニーは。

一体どんな人生を歩めばそんな魔性を手に入れられるのか、興味が尽きない。

魔性と言えば、トロッコでのことは一体何のつもりだったのだろうか。彼女が憎いという訳ではないが、思い返すも忌々しい。
よくも人の臓器を舐められたものだ。
長時間人体から切り取られてもまだ動いている心臓など、見るのは初めてだろうに。それを柔らかく刺激すると快感になるなんて、どんな頭してたら思いつくんだか。

もしかすると、初めは噛んだら想像を絶する痛みだぞという脅迫だったのかもしれない。
ということは、おれの反応を見て揶揄う方向に切り替えたか。

キスを迫った件を根に持っている?いや、未遂に終わったのだから、総合的に見れば彼女が受けた被害よりおれが受けた被害の方がよほど大きい。負け越している。

どういうつもりなのか、いずれ彼女を問いたださなければいけない。
麦わら屋には子供に接するように甘いくせに。その他の男どもにも楽しそうに笑いかけるくせに。
ニコ屋にそれとなく訊いたところ、誰彼構わず喧嘩を売るような性分では決して無いらしい。
ならば何故おれに突っかかるのか。

しかしそもそも彼女は麦わらの一味に世話になっている身であり、その船員に不親切な態度をする理由はないのだ。同盟を破棄すれば即麦わら屋の敵となるおれと態度が違うのは当然だ。
だとしても、誰に対しても基本的に親切だと皆が口を揃えて言う彼女の、おれへの挑発的な態度は解せない。

彼女は目的地があって、麦わらの一味の船に同乗していると聞いた。
ならば、ハニーと出会うのが、おれが先だったらよかったのに。
そうしたら、あの笑顔は自分に向けられていたかもしれないのに。

麦わら屋がなんとなく憎くなってきた。

そういえば、麦わらを一発殴るのを忘れていた。
あの時は彼女が止めたが本当は怒りに任せて殴ってやりたかった。
しかしその理由を説明しろと言われると、ちょうどいい言葉は思い浮かばない。

考えながらそぞろ歩いていると、いつの間にか周りが賑わっていてぎょっとする。
そんなに長い間彼女の事を考えていたのだろうか。考え事をしていて周りの様子に気付かないなんて緩んでいる。しっかりしろ。


「兄ちゃん見ていきな!“南の海”の特産品が目白押しだよ!」

「水の都ウォーターセブンの伝統衣装だよ!さあ買った買った!」


威勢のいい商人達の声が飛び交う。
簡単な屋根のついた出店ばかりが並ぶここは、町の中心部より少し離れたところにある市場だ。この町ではそう大きくない市場だと聞いたが、それでも横に手を伸ばせばすぐ人に触れてしまうくらいの混み様である。

貿易による収入で国が成り立っているだけあって、市場に並べられる商品の数は大したものだった。興味を惹かれない区画は速足で通り過ぎるのだが、先ほどから同じ類のものを売っている店はまばらにしか見かけない。
化粧品、服飾雑貨、調度類、時計、望遠鏡専門店に仮面専門店、食器にカトラリー、宝石にナイフ、動物の毛皮、猛獣の爪。
世の中のありとあらゆる物に片っ端から値札を貼ったような有様だった。


「こっちは、“北の海”原産の香辛料だよ!奥さん、見てってよ!」


自分の出身の海の名前に耳を傾けると、人の好さそうな男が大量の香辛料を並べて謳い文句を繰り返していた。
カルダモン、ジンジャー、シナモン、ナツメグ……並べられた香辛料に、母親の事を思い出す。

外から帰ってきた寒い日、悪夢に眠れない夜、母親がよく作ってくれたのは様々なスパイスが香るホットミルクだった。
“北の海”では一般的に知られているレシピだったようだが、作ってもらったホットミルクを飲むと心まで暖かくなるのが不思議で、母親の事を魔法使いだと思っていた時期もあった。

もう何年も飲んでいないので忘れてしまったが、最後に飲んだ時も、包み込まれるような幸せの中だったように思う。

故郷を思い出すと感傷的になる。
雑踏の中でこんな気分になるのはいくらなんでも気が滅入ったので、香辛料の店を離れてまた歩く。
もう少し日が暮れたら飯を食う場所でも探すかと、とりあえず市場の端まで、歩いてみることにした。



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海獺