薄くかかった雲のせいでぼやけた影が二つ、レンガの通りを抜けていく。
相変わらず行く当ては無かったが、ローの足取りに迷いはない。ハニーもまた、大人しくローの後ろをついて歩いた。
ローの右手は、今度は跡が残らないよう手加減して、しかし容易には逃れられない程度にしっかりと彼女の腕を捉えている。

二人とも無言だった。

あの後、二人はすっかり怯えきった女を家まで送り届け、公衆電話から軍に通報することで男の処理はおざなりに済ませた。
ハニーは女のこれからの身の安全を考えて男が確保されるまで見届けるべきだと主張したが、受話器を置いた瞬間に彼女の腕を取り、ローは有無を言わせずここまで引っ張ってきた。


「この辺でいいか……座れ」

「……」


辿り着いた公園に街灯は無い。こんな時間(宴会ともなれば日を跨いでも騒ぐ海賊にとっては、まだまだ宵の口であるが)に公園に来る者などこの国にはいないからだ。
これで天気が悪ければ、互いの姿が見えないほどの暗闇になるのだろう。
この辺りは酒場も無いらしく、遠くから夜行性の動物の鳴き声が聞こえるのみの静寂だった。

ローの示した先にはベンチがある。手を伸ばした距離でお互いの表情がギリギリ判別できる暗さだったので、ハニーはローに言われるまでベンチの存在に気付かなかった。

きっと無駄だからと抵抗こそしなかったものの女性の扱いがなってないことに些か腹を立てていたハニーは、黙って立ったまま掴まれた腕を見るばかりだ。
座らせたいならまず手を離せと態度が物語っている。


「捕まえられたいならそれでもいいが、その後を覚悟しておけよ。捕まえたらおれの好きにするぞ」

「……ああもう、わかりました」


手を離したらその瞬間、彼女は能力を行使して闇に紛れて逃げると踏んだローは、低い声で牽制した。
思惑を読まれ退路を断たれたハニーは両手を上げて降参のポーズをとると、スカートに皺がつかないように気を付けてベンチに腰掛ける。
木製のベンチに夜の湿り気が移っていてひんやりとする。酒場に上着を忘れてきたハニーは、彼女には珍しい剥き出しの肩を震わせた。

彼女が腰を落ち着けたのを見て、隣に少し間を空けてローも座る。


「……」

「……」


連れ出したはいいが、あの空間に彼女を居させたくなかっただけで何かを言うために連れ出した訳では無かったローは、口火を切ることもできず黙り込む。
彼女も当然ローに特別話がある訳ではないので、何も言えずにいた。明らかに雑談をする雰囲気では無いので空気を読んでいるというのもある。ローが何に対して機嫌が悪いのか心当たりが複数あり、下手にハズレを引いたら藪蛇だというのも、この重い静寂の理由の一つだった。


「よく平気でいられるもんだ」


ローが口を開いたのは、四回目の動物の遠吠えが聞こえてからだった。


「不愉快なモン見せやがって。鳥肌が立った」


情報を得るために、太ももを差し出したことについての抗議である。

そもそも、あの格好がローは気に入らなかった。
船にいる時は首元から脹脛までしっかりと隠していたというのに、酒場では首どころか肩も太ももも露出していた。
彼女の振舞いは服装が変わっても優雅なままで、それは下品というほどではなかった。
しかし、つい数時間前に濡れた服から着替えたばかりなのに島に降りる前にわざわざ着替えたのは、色気を武器に情報収集を円滑にするために他ならない。その露骨さが、ローにとっては非常に不愉快であった。
その武器を自分に向けない、向ける必要が無いと思われていることに対しての苛立ちもあった。

ローとて、自分の立場でしていい主張なのか微妙なところだとは分かっている。
彼女の身を案じている気持ちも確かにある。女が簡単に男を受け入れるなんてはしたないし、危険なこともある。
しかしどうしても彼女を責めるような口調になってしまうのは、心配とはまた別の感情があるからだとはっきりと気付いていた。

海賊が“はしたない”などと。

こじつけのような自分の考えに、ローは自嘲した。


「キミには関係ないことだよ」


ローが不愉快だと言ったのが何の事を指しているのかすぐに思い当たったハニーが、そっけなく言い放つ。その声色には余裕が表れている。どうとでも煙に巻ける自信が彼女にはあった。
酒場で彼女を見つけた時の、邪魔な男をあしらう声色と同じだと気付いたローは、苛立ちをそのままに酷い悪態を吐いた。


「汚ェ女」

「は……」


言って、即座に後悔した。
しまったと舌打ちするも、言ったことは取り消せない。ついでに、舌打ちも違う意味にとらえられてしまうだろうと、ローは重ねて後悔した。

反芻してから言うべきだったと、彼はたった今自分の口から出た言葉の理由を今更考える。

麦わらの一味には嬉しそうに笑いかけるくせに、会ったばかりの白猟屋に対しても親しげに会話するくせに、自分に対しては一歩どころか数十歩引いて澄ましている彼女の感情を、引きずり出したかった。
それが怒りの感情でも何でも構わなかった。彼女の心を自分の手で動かせるのならば。

仮面を被っているハニーの本当の顔を知りたいがためにした挑発は、ローの狙い通り、彼女の感情を昂らせることに成功する。
彼女が思わず漏らした声は、明らかに怒気を含んでいた。暗闇の中を窺い見ると、顔も心なしか強張っているように見える。

結果を前にして、相手の気を惹きたくて罵声を浴びせるなんて幼稚な真似をしたと省みるが、後悔しても彼女の怒りが収まる訳ではなかった。


「…言われなくても、わたしが一番分かってるよ」


ハニーが眉を寄せて言う。
彼を見据えた目を、ローは美しいと思った。彼に対して後ろめたい気持ちなど少しも無いのだと悟った。

汚いなんて、本心から言った言葉ではない。
しかし言ってしまった以上、思っていないなんて言い訳は通用しない。思わなければ口に出る訳がないのだから。


「でも、これは自分で選んだ道なの。目的のために最善だと思った道なんだよ。虚しさも罪悪感も全てわたしだけのもの。キミにとやかく言われる筋合いはない」

「……」

「何でハニートラップが世界から無くならないか分かる?色仕掛けに勝てないアホな男がアホみたいにたくさんいるからだよ」


ハニートラップについての解釈は置いておくとしてもハニーの言うことは正論だった。
ローには彼女の生き方に口を出す道理は微塵もないし、それを嫌悪したとしても、口に出して批判しておいて、笑って許されるような深い関係ではない。


「とても不愉快。二度と言わないで」


ローは分かっている。分かっているが、納得できるかと言えばそうではない。
彼女には珍しい強い物言いに驚きつつも、彼は彼で退くつもりは無かった。


「麦わら屋の前でも、同じことすんのかよ」

「何度も同じこと言わせないで。キミには関係ない」

「それ以上のこともするんだろう」

「いい加減にして!」


ハニーはついに声を張り上げた。
彼女もまた、口から衝いて出た言葉に後悔する。

何を言われても感情を抑える訓練はしていたし、実際、彼にちょっかいを出された時も叫ぶような真似はせずにいられた。
なのに今、彼には言われたくないことを言われて、感情を乱されるどころか誰にでも分かってしまうほどに怒りを露わにしてしまった。

ルフィを馬鹿と言われた時でさえこんなに声を荒げたりしなかったのに。
これ以上感情を乱されたくない。早々に会話を切り上げるべきだ。
彼女はそう思うのに、言わずにはいられなかった。


「ロー、この際はっきり言っておくけど。キミの行動、迷惑だよ。理に適ってないし筋が通らない」


ハニーは無意識に早い口調になっている。ローが少したじろいだことにも気付かなかった。


「出会い頭に挑発したのは悪かったけど、自分より弱いと思って最初に見下してきたのはキミの方でしょ?何でわたしにちょっかい出してくるの。何でわたしの邪魔をするの」


ハニーがまくしたてる。
ローは咄嗟に言えることがなく、口を挟む前に、彼女がまた口を開く。
彼の返事を聞くつもりはないのだ。


「あのまま機嫌よく喋らせていればドレスローザの情報を得られそうだったのに、キミのせいでパァだよ。キミはもっと冷静で合理的な人でしょ?キミが分からないって言ってた工場の場所だって、もしかしたら知っていたかもしれないのに。何で自ら台無しにするの」

「お前にそこまでしてもらう義理はねェ」

「ルフィ達に少しでも火の粉が飛ばないようにしてるだけだよ。キミのためなんかじゃない」


見抜かれるかどうかはともかくとして、ハニーは怒りを隠しきれずにいながらも、嘘を吐くことはできた。
彼女はこういう時、本当のことを言わないことはあっても嘘を吐いたりはしない。それが相手を怒らせる嘘なら尚更だ。
しかしローに煽られたせいで、つい吐かなくてもいい嘘を吐いてしまった。
彼をより苛つかせるだけだと知っていながら。


「もういい、黙れ」


ローの怒りは理不尽だ。
彼自身何度も顧みたことだったが、彼女の感情が昂るのにつられてか、ローの感情も、もう抑えられないところまで近づいていた。

――――そうだ、おれは元々、この女を抱きたかったんだ。
二年前からずっと。その泣き顔を思い出して、自分で泣かせてみたくて、自分のために泣かせたくて。
甲板では美しかったあの泣き顔がベッドの上だとどう見えるのか興味を持った。それだけだ。
何を言い繕ったところで意味はない。もともと言葉など必要なかった。

ローはベンチに座る彼女の前に覆いかぶさるようにして、彼女の動きを封じた。
左手は背もたれを掴んで退路を断ち、右手で顎を強く捉える。ハニーは抗ったが、男の体はびくともしない。


「おれにもその体使って訊いてみろよ。七武海だ、麦わら屋に有益な情報が手に入るかもしれねェぞ」

「やめて!」

「パンクハザードを出たらお前を抱くと言ったはずだ」


唇を奪うため顔を近づけるが、彼女に肩を一際強く押され、ローは一度押し留まる。

もう彼女に対して、言葉にしがたい心情を打ち明ける必要など無い。
無理矢理にでも言うことを聞かせてやる。おれには彼女に仕返しする権利がある。

抱く前に心臓を抜いて、彼女にやられた以上に思う存分嬲ってやろうか。
心臓を直接愛撫されるなどという荒唐無稽さも手伝ってあの状況ではおそらく誰にも気付かれていなかったとはいえ、自分の時は周りに人がいる状況で辱められたのだ。
宿に連れ込むまでもない。今ここで、野外で襲ったって、文句は言わせない。

じわり、暗闇の中彼女の目に涙が浮かんだのを見て、興奮したローの頭の片隅に冷めた感情が生まれる。

この女のことだから、泣きまねもおそらく得意なのだろう。
先ほど感情をあらわにしたのを見ていなければ、完全に演技だと思えるのだが。

どちらなのか。判断がつかなくて、対応に困る。
本気で泣いている女に追撃したら二度と修復できない亀裂が生まれるし、かといって嘘だったらまたしても女の掌に転がされたことになる。

本当に、このまま襲って後悔しないのか。ローの動きにほんの迷いが生じた。


「――――当ててあげようか。キミが何をそんなに焦ってるのか」


ハニーが呟いた言葉が逡巡したローの力を緩めた。
彼女が彼の肩を押す力の方が勝り、二人の距離が少し離れる。

言うつもりもなかったし言わなくていいことだったと思いつつも、彼女がローを止めるために思いついた言葉は、これしか無かった。
その声は震えている。彼女に気持ちの余裕は残っていない。


「おれが、焦ってるだと?」


ローは彼女を見下ろしたまま、不機嫌に彼女の言葉を繰り返した。
何かに焦っている自覚は無い。しかし彼女の答えは気になった。

ローは今、ハニーを我が物にせんと強引に迫っている。それは決して女に飢えているからではない。
事実はどうあれ、発情した童貞のように女にがっついていると彼女に思われているとしたらこれ以上ない屈辱であるので、そう考えているようなら否定しなくてはならないと、ローはもう一度彼女に問い返した。


「おれが何を焦ってるって言うんだ」

「死ぬつもりなんでしょう」

「……!」


どくん、とローの心臓が跳ねた。

動揺がローの体を固くする。ハニーがそれを悟るには、その微妙な筋肉の動きと揺れた目で十分だった。

ハニーの言う通りであった。ローには死ぬ覚悟がある。だからこそ彼は、彼の船員クルーたちを置いて、一人で行動していたのだから。
敢えて関わる必要のないドフラミンゴを陥れる計画を立てたのは、ハートの海賊団として名を上げるためだけではない。私怨も混ざっている。
それに船員たちを巻き込んで、むざむざと失うことだけは避けなければいけなかった。

ローは身に染みて分かっている。ドフラミンゴの強さも恐ろしさも。
同じ七武海という立場に立ったとて、その実力差は悔しいほどに明らかであることも。

もちろん死にたい訳ではない。今回の計画は、ヒットアンドアウェイの、引き際に重きを置いた計画である。勝算も十分とは言えないが――――ある。

しかしハニーは、ローの覚悟を見透かしていた。


「……」


ローは目の前の女を見つめ、不思議だ、と思った。

彼女は自分とドフラミンゴの因縁を知らないはずだ。
ドフラミンゴにコラさんを殺された恨みも、恩人の果たせなかったことを代わりに果たしたいという想いも、麦わら一味には何一つ話してはいない。
ドフラミンゴに接触する今回の作戦はカイドウを引きずり下ろすための計画の通過点に過ぎないと、そう説明しただけだ。

なのに彼女は、本当はおれ自身が、ドフラミンゴをただの通過点だと割り切れない思いを抱えていることを、見抜いてしまう――――

ローが動揺したことで、ハニーはそれを肯定と受け取った。
ふ、と彼女は眉と口元を歪めて笑う。
ローにも麦わら一味にも見せたことのない、軽蔑を分かりやすく浮かばせた笑みだった。


「キミって男は、本当どうしようもない生き物ね」

「…どういう意味だ」

「ナミやロビンよりヤれそうだと思った?その見込みはまァ、正解だよ。彼女らは鉄壁だから」

「ちょっと待て」


自嘲気味に笑う彼女の言葉に、ローは固まるどころか硬直する。
彼女は肝心なところを見抜けていなかった。


「明日死ぬつもりだから、誰でもいいから最後にセックスしたいんでしょう。だから焦ってる」

「…お前、それはおれを馬鹿にしすぎだ。おれを何だと思ってる……!」


ローが呆れ半分怒り半分で言うと、どうも思っていた反応と違うなとハニーは軽く首を傾げた。
性欲を指摘されたらさすがにきまりが悪くなって解放されると彼女は思ったのだが、目論見は外れていた。


「弱い奴はいらねェ、目的のためなら手段を選ばない冷酷非道の合理主義」

「お前がどう思おうとお前の自由だが」

「女なんかそっちから来てなんぼ、入れ食い生簀の据え膳踊り食い男」

「それは否定する」


酷い言われように、はァと溜息を吐いて、ローはハニーから体を離す。
ハニーの思惑とは違う形だったが、とにかくローの暴走が止まったことで彼女もまたホッと息を吐いた。彼の反応に疑問を残しはしたが。

ローはベンチの背に投げやりに全体重を預けた。
作戦は首尾よく進んでいるのに、彼女に関しては何一つ上手くいかない。強張っていた体から力が抜ける。

傍から見る者がいたら自業自得だと言うだろう。彼の態度は確かに、彼女にそう思わせても仕方のないものだった。

『ローは女遊びが激しい』。
パンクハザードで彼が彼女に不敵に迫ったことで、彼女はローをそういう人間だと思っていた。
どうみても女馴れした態度だったし、ルックスを見ても七武海という実力と権力を見ても女受けは最高だろう。
はじき出された結論が、ローを脱力させたセリフである。


「お前の少女趣味に付き合うつもりは無ェが、弁解はしておくぞ」


彼女の恋愛観は、軽率に男を誘うその行動と全く合致していない。私情と仕事は別物なのだろう。
ローは、どちらかと言えば、たった一人に操を立てる人間ではない。海賊団の船長として帆を張ってから今まで、どんな美女に誘われても、一夜を越えて一緒に過ごす相手を作りはしなかった。
だから彼女が語る恋愛観とは相容れない。仕事と私事を分けて考えるなら、むしろ仕事モードの彼女とは相性のいいパートナーになれるだろう。
だが彼が手に入れたいのは、仕事として割り切ったハニーではない。

女を繋ぎ止めるために心の内を曝け出すなんて。

ローのプライドは些か傷ついたが、背に腹は代えられないと彼はひとつ決意をして口を開いた。
ローの顔を正面に見据えて主張したハニーの強い目を思い出して、ローもまた彼女の顔を、目を、しっかりと見た。


「まずひとつ。好みの問題だ」

「うん?」

「ナミ屋もニコ屋もイイ女だが、おれはお前がいい」


『誰でもいいから』という自分の発言に対しての反論だと気づいたハニーは、律義に訂正したローに、彼に対しての認識を少し改めた。
少なくとも、女遊びが激しいことを誇ったり開き直ったりするほどのオープンスケベではないらしい、と。

まあ確かに、よほどぶっ飛んだ性的価値観の持ち主でなければ彼女たちを綺麗だと評価せざるを得ないよな、と思う。
船内で彼女たちと共に過ごしているとき、眼福と呟いたことはハニーにも数回覚えがあった。

ナミとロビンをいやらしい目で見ないでね。そう言いそうになったが、ローが今までになく真剣な顔をしているのでハニーは黙って喉を鳴らした。



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