「それから…二年前だ。初めて会った時から、妙にお前のことを思い出す」


ぴく、と一瞬、ハニーの眉に皺が寄ったのに気がついた。
不快なことを言ったつもりはない。何か気に障るようなことだったか、今のが。それとも二年前と聞いて、彼女が慕っていた火拳のエースが死んだときの事を思い出したか。

時と共に厚くなった雲がおれたちの暗闇をより濃くしていく。彼女の表情はますます窺いづらくなった。
気にしたところで、言うことは変わらない。構わず続ける。


「他の男との関係、最後に泣いた意味、…折にふれてお前のことを考えている自分がいる」

「……」

「お前が気になって仕方ねェ。…お前に誤魔化しはきかねェようだから正直に言うが、抱きてェだけなのか、恋愛感情なのかは分からねェ。だがハニー、お前ともっと深い関係になりたいと思っているのは確かだ」


恋愛感情。
ずっと、違うと思っていた。ハニーに対して自分が感じるのは、原始的な性的興奮なのだと、思っていた。

だが今は彼女のことをどう思っているのか分からない。
何を以て恋心というのか、分からない。

気持ちに確かな形など無いのだ。自分の中の言葉にできない感情を、一般に恋と呼ばれるそれだと判断するにはおれの恋愛経験は乏しすぎた。
というか、自覚できるほど女に執着をしたことがない。

だが彼女を独占したいという気持ちは自分の中に認めている。

これだけは言える。彼女はおれにとって特別だ。他の誰にも感じたことのない、強烈な魅力を彼女には感じる。

だから今、正直に打ち明ける。伝えればもう少し彼女との関係が変わるかと期待して。


「根拠はねェが、不思議と分かる。おれに足りない何かをお前なら埋められる。おれは死ぬ前にお前に満たされてみたい」

「……っ」


目の前の彼女が驚きに目を見開いたのを見て、正直に話したのは正解だったと心の内でほくそ笑む。
暗闇でも分かるほどに彼女の表情を変えたことに、嬉しさを禁じ得なかった。
幼稚な真似などせず、最初からこうすればよかった。


「…そんなこと言って、懐柔する気ですか」

「疑り深ェことだ」

「キミなんか……信用、できない」


呟くようにそう言って、彼女は俯いた。
確かに言いたくなる気持ちは分かる。つい先ほど汚いと罵った舌の根も乾いていない。彼女の主張は尤もだ。
しかし彼女の言葉には、先ほどとは打って変わって、覇気が感じられない。皮肉や嫌味ならもっと口調もそれに伴っているはずだ。少なくとも今までおれにぶつけてきた可愛くない言葉の数々は、内容も可愛くなかったが態度も可愛くなかった。
信用できない。心の底から強くそう思っている訳ではないと、判断した。


「当然だ。互いに何も知らない」

「……」


また憎まれ口でも叩くかと思えば、意外にも彼女は沈黙を選んだ。勝気な彼女はすっかり鳴りを潜めているようだ。
とはいえ、無視されているわけではないようだ。おれの言葉に考えるものがあったのか、何か思い悩んでいるように、口元を指が彷徨った。

遠くから動物の鳴き声が響く。冷たい風が吹いて彼女の髪を揺らした。
浮いた髪が俯いた彼女の顔にかかる。それを耳にかけてやろうと頬に触れると、彼女ははっとして顔を上げた。


「……」

「……」


彼女が何か言おうとしたが、しかしその口から何も紡がれることなく、またむっつりと黙り込んだ。視線もまた下に下がる。
強気に言い返してくる彼女もまあ、良いと思う。ただ従順なばかりでいる女よりもずっと好ましい。
しかし、こうやって困り果てたような彼女もまた、触れてみたくなる儚さがあって非常に良い。どうにかしてやりたくなる。

もっとおれのことで悩めばいい。おれが彼女について考えたのと同じくらい事あるごとにおれのことを考えればいい。
きっとお前はおれと違って、この2年間でおれを思い出したことなんてほとんど無いだろう。

思えば、麦わら屋の船では少し話そうとすればすぐ理由を付けて笑って逃げられた。
それが今、彼女は戸惑った表情で、おれの手の届く範囲にいる。

ああ、こんな些細なことで溜飲が下がるのか、おれは。
さっきまでの苛立ちと興奮が嘘のように凪いでいる。
パンクハザードで彼女にされた屈辱的なことも、今は忘れてもいいとさえ思える。

体に倣って顔を前に向けることもせず、こちらに向かって俯いたままである彼女の髪に触れた。
撫でつけるように指を滑らせて、その感触を楽しむ。
大人しく頭を撫でられている彼女を、犬のようだと思った。今だけは、気まぐれにすり抜けていってしまう猫ではなく、スキンシップに飢えた、素直になれない控えめな犬。いじらしくて、抱きしめて甘やかしたくなるような。
暫くそうしながら彼女の言葉を待ったが、タイミングを失ってしまったのか、彼女は何も言わないままだ。
もう暫くはそれでいい。撫でる側も気持ちいいその感触と温もりが、彼女から言葉を引き出すことを忘れさせた。

遠くで生き物が鳴く。

彼女は少しの間撫でられるがままにさせていたが、体勢が辛くなったのか、沈黙が馬鹿馬鹿しくなったのか、緩慢な動作で身じろぎした。
おれに寄りかかり、やや背を預ける形でくっついてくる。


「……」

「……」


行動を起こした彼女のほうから何を言ってくるわけでもなく、沈黙は続く。
何かを察しろということだろうか。
男に身を預けて察しろ、というとこちらに都合の良い解釈しかできそうにないのだが。

いや待て、ならばさっきの拒否は何だったんだ。
正直な気持ちを吐露したことはおそらく彼女に良い影響を与えた。しおらしい態度から言っても、それは間違いないと思う。
しかし告白した内容は喜べるものではなかったのではないだろうかと思う。性欲を満たしたいだけかもしれないと、はっきり言ったのだ、おれは。それが礼を欠く発言であることくらいさすがに分かる。
あれを差し置いても、身を委ねてもいいと翻意するほど正直に気持ちを伝えるのは彼女にとって有効だったのだろうか。

萎えていた期待が膨らむ。
麦わら屋達には肩を外されても全く見せなかった怒りを、おれには向けた。感情を剥き出しにさせることに成功したのだ。
ならば麦わら屋達に見せない他の顔も見せてくれるのだろうか。

欲するままに彼女に触れようとすると、彼女が凭れ掛かっている自身の左側の肩が彼女の体によって固定されていることに気付く。それならと右手を伸ばして触れようとすると、体に触れる寸前で彼女の手に止められた。
そこでようやく、おれの頭が完全には冷えていなかったことに気付いた。


「……」


この姿勢、そういうことかよ。

だんだん分かってきた。どこまでも上げて落とす女だ。初めて口論した時といい、期待させておいて落とすタチの悪い女なのだ、コイツは。
まあ先ほど無理矢理迫ったことを考えれば、無理もない反応かもしれない。
しかし普通に拒否されるより、触れられると期待した生殺しな分、辛い。彼女のこの行動には復讐も含まれているような気がする。なんだかんだ言われたが、彼女の方がよほど合理主義だと思った。

彼女が傷つかない程度の文句でも言ってやろうかと考えていると、彼女が漸く口を開いた。


「言いたいことがありすぎて、でも秘密にしたいことも多すぎて……何を言うべきか、悩んだ」

「……」


秘密にされるより、言いたいだけ言われた方がおれにとっては都合がいい。
ハニーは分かりにくい。先ほど彼女が言ったように、彼女はおれを信用していない。それはおれも同じだ。おれだって、彼女のことは信用していない。
なにせ彼女は感情を偽るのが上手い。彼女と多くの時間を共に過ごしたとはいえないが、それはよくわかっていた。彼女の持つ様々なスキルは、彼女の本心を隠すのに最適すぎる。
だから彼女をよく知るには、少しでも多く会話する必要がある。彼女を暴くにはおれにはまだ彼女との付き合いが足りない。
『秘密にしたいこと』が存在していると白状したこと自体は、進歩と言えるだろうか。

無言で応える。悩んだ、ということは、もう言うことは決まったのだろう。


「一つだけ、言うことにする。……死なないでほしい」


ハニーは静かにそう言った。
彼女の掠れた声に、息を呑んで彼女を見る。泣いている、と分かった。
彼女に目を向けても、この体勢ではつむじが見えるだけだ。しかし、いつもより密着した体が小さな震えを伝えてくる。

ここで泣く意味がわからなくて、戸惑う。
タイミングを考えれば、おれが死ぬ未来を想像して悲しみに流した涙なのだろうが、彼女にそこまで想われる理由が見当たらない。
二年間彼女を気にしてきたおれでさえ、彼女が実際に死んだならともかく、想像で泣くようなことはないと断言できる。互いを信用していない程度の仲でしかないし、何なら彼女には散々接触を拒まれてきた。

自ら身を寄せておいて動きを封じ憎き相手をちゃっかり生殺しの刑に処した行動を思い返してみると、この涙も演技だろうかと疑ってしまう。
涙なんて、彼女ほど人を誑かすことに長けた人間でなくとも、そこらの娼婦でも自在にコントロールできると聞く。
今度は何を企んでいるというのか。

おれが黙っていることを不安に思ったのか、彼女はおれを見上げて、もう一度言った。
やはり彼女の目には涙が浮かんでいる。潤みが僅かな光を反射して、幻想的に光った。


「死なないで。敵わないと思ったら、何を置いても逃げて」


考えても分かりそうにないと思ったので、素直に彼女と会話することにした。
彼女にまた何かしら騙されたところで、苛つきこそするが命を取られるわけでもない。
彼女は同盟を組んだ麦わらの一味の協力者だ。おれに仇することは麦わら屋達に不利益を齎すことに繋がる。
同盟が生きている限り、つまりカイドウを打ち倒すまでは彼女は味方だ。遊びで済まされないような欺瞞はしないだろう。


「誤解しているようだが、おれは死ぬつもりはない」

「嘘」

「なぜ言い切れる」

「わたしに嘘は通用しないの。…六割程度の確率で、見抜ける」


六割、結構な数字だ。
嘘は通用しない、までで止めていればハッタリも効いたものを、わざわざ補足するあたりこれは嘘ではなさそうだ。

……なんて女だ。
どうしてそんなに察しが良いのか。まるで心の中を覗かれているような、妙な気分だ。

ハートの海賊団を立ち上げてからというもの、死線はいくらでもくぐり抜けてきた。齢13のガキが海を生きるのに安全な場所などどこにも無かった。独り立ちするのに十分な実力を最初から備えていたわけではないのだ。
だから死ぬ覚悟など、今回の計画を想い描いた時には、疾うにできていた。
何なら、故郷を失ったその時から。
もっと言えば、病気による自分の死期を悟ったその時から。

しかし計画の大詰めを目の前にして、気持ちが一層深まったのだろうか。“死ぬ覚悟”はより具体的に“死の予感”にまでなっていた。
それを見透かされた。


「死ぬ可能性があると理解しているだけだ。ドフラミンゴは強い。同じ七武海とはいえ、おれは自分を過信しているつもりはない。この件で誰かが命を落とすことは十分にあり得る。そしてお前や麦わら屋たちは、おれの計画に巻き込まれた立場だ。誰かが死ぬとしたら、それはおれであるべきだ」


同盟を組み同じ作戦を共有する以上、麦わらの一味にも、それなりの覚悟と責任は持ってもらわないと困る。とはいえ、これはおれから持ち掛けた提案。計画を考えた奴が一番重い責任を持つのは当然のことだ。
そして何より、この作戦にはおれの私怨も含まれている。だからドフラミンゴとの対決だけは誰に任せる訳にもいかない。
工場を壊しドフラミンゴを完全に終わらせるには囮が必要で、奴との戦闘は絶対に避けられない。そしておそらく――――おれは、ドフラミンゴには勝てない。
コラさんの本懐を遂げるためなら、死んだって構わない。死にたいとはもちろん思わないが、命も懸けないで奴を倒せるはずがない。


「それでも……死ぬ気で挑むのと、死ぬつもりで挑むのは違うよ」

「……」

「きみは、死ぬつもりで挑んでいるように、見える」


彼女がいかに察しの良い人間とはいえ、自分とドフラミンゴの関係を見抜くことはさすがに難しいだろう。
奴の弱みを握るためには七武海に加盟することが前提条件になるのは、何年も前から決定していた。政府にドフラミンゴとの関係を感づかれる訳にはいかなかったから、仲間を除いて誰にも漏らすことは無かったし、仲間にも深い事情は話さなかった上にきつい箝口令を敷いた。
ドフラミンゴ側も、わざわざ裏切られた話を広く語ることはないだろう。
故におれとドフラミンゴの過去は誰も知ることはできない。彼女がいかに腕のいい情報屋であっても、本気で探るのならともかく、探してもいないのに勝手に舞い込む情報でもない筈だ。

おれがドフラミンゴに固執しているとして、ハニーにはその確証は得られないはずなのに、どうしてここまで自信を持って言えるのだろうか。


「何故、お前はおれに死んでほしくないんだ」

「理由を言えば、無茶はしないって誓ってくれるの?」

「……」


反語的な質問に対し、嘘を吐くことができない。
工場を見つけ出し破壊するまでの時間、ドフラミンゴだけではなく幹部達をも相手取る可能性がある。絶対に死なない保証は無い以上、無茶をしないと言う約束などできる筈も無い。
彼女はそれを分かっていて訊いた。

おれの様子は予想通りだったらしい。理由も聞かずにおれが納得するはずがないと、彼女だって理解している。彼女は溜息を吐いて、意を決したように言った。


「ドレスローザで…キミがもし生きていてくれるなら、きみの言うことをひとつ、何でも聞いてあげるよ」

「……!」

「キミがどんな時でも、生きる選択をしてくれるなら」


随分魅力的な話だが、彼女には何の利益も無い話だ、信じる気にならない。
約束を違える女には見えないが、後から何とかして誤魔化されそうだ。今までの躱し方から言って、大いにあり得る。


「そこまでするメリットがお前にあるのか」

「あるよ。キミが死んだら、ルフィが悲しむでしょう」

「お前、…いや、もういい。分かった。努力はする」


追及すればもっと酷い答えが返ってきそうだったのでやめた。
故意か本心か、おれの考え得る限り最も嫌がる答えで返してきやがった。

ひとまず、この会話には成果があったと自分を納得させる。
死ねと思われているよりマシだろうし、言質を取った。棚ぼたそのものだが、おれが今回の作戦で命を落とすことがなければ、彼女を好きにしていいという約束を取り付けた。
自分の貞操よりおれの命の方が重要だと、言わせた。
お前を抱きたいと宣言した男に対してそんなことを言ってのけるのだ、多少の無体も想定済みの筈。あの航海士が茶々を入れてきたとしても、彼女の約束を盾に撥ねつけることができるだろう。

迷いを生むようなことを言うなとも思ったが、彼女の言葉は単純に嬉しい。
おれは選択を迫られるだろう。切り込むか、退くか。状況にも依るが、切り込めると判断したなら、おれは命を差し出して、ドフラミンゴと刺し違えることができる。

大丈夫だ。おれはなんとしてでも、目的を果たす。
彼女のたった一言のために、13年間貫いてきた思いを曲げることなどしない。
もし良い方向に想定外の事が起きて、工場を破壊しドフラミンゴを退け生き延びることができたなら、その時はラッキーだ。存分に彼女の提案を利用させてもらう。

風が強く吹いて、彼女が自分の両腕を抱きかかえて寒さに耐えるのを見て、彼女から体を離す。
解放された彼女側の腕を彼女の肩に回して抱き寄せると、彼女が拒絶するようにおれの体を押し返した。


「暖めてやる。上着はあの店に置いてきただろう」

「キミのせいでね」

「だから責任とってやるって言ってんだろ。安心しろよ。今ここで襲う気は失せた」

「……ん」


怒って帰ることも考えられたが、彼女はおれの提案に乗ることにしたらしい。大人しくおれの体温に寄り添った。
おれの胸に彼女の頬が寄せられたのを確認して、彼女の頭に自分の頬を乗せる。ミルクのような甘い良い匂いがして、今日はよくホットミルクの味を思い出す日だな、と思った。

穏やかな時間が流れる。近いうち、生死も分からぬ戦いに挑むとは思えないほど。

彼女の柔らかい髪と匂いを堪能しながら、この女はどうしてこんな殺伐とした世界にいるのだろう、と考える。
船員が仲間になった経緯は様々だ。恵まれない環境を変えたくてついてきた者、おれの戦いに惚れたと言って乗り込んできた者、奴隷にしておくには惜しいとスカウトした者、兄を探して海に出たはいいが行き場を失った者――――ハニーは、初恋の人を探していると言った。人探しのために海へ出て、今では麦わら屋の船に乗っているのか。

麦わら屋の船には、シャボンディ諸島から乗ったと聞いた。何歳から海へ出たか知らないが、“北の海”から“新世界”まで、仲間も持たずによくも辿り着けたものだ。この細腕で生き残ったのは、やはり彼女の情報屋としてのスキルが優秀であることを示している。
剥き出しの肩から続く白い腕を見つめながら、ふと、彼女に疑問を投げかけた。


「お前、結構強いんじゃねェのか」


頭上から突如降ってきた質問に、彼女は落ち着いた声で答える。
いつもの調子に戻りつつあるようだ。


「そんなことないよ。どうしてそう思うの?」

「目を閉じなかった」


男がナイフを構えて彼女に走り出す前、入れ替える適当なものを見つけるついでに、おれは一定の距離を保って彼女たちがよく見える位置に移動した。

ハニーはあの時、男の攻撃を避けようとはしなかった。

避けられなかったとは考えにくい。本当に避けることができない人間なら、目を瞑ったり、体を逸らしたり、何らかの回避行動をとっただろう。
しかし彼女は避ける素振りさえ見せず、棒立ちしていた。能力を使おうとしているようにも見えなかったし、だとすれば身一つで男を制する術を持っていたのではないか。


「おれが割り込まなくても、あの男をどうにかすることはできたんじゃねェか」

「…まあ、そうだね。キミやルフィには…奥の手を使っても、大して通用しないだろうけど。素人一人程度、能力なしでも負けないよ」


多少腕に自信はあるらしい。なるほど、ターゲットに大胆に迫ることができるのも、いざとなれば周りを伸して逃げ切ることができるからか。
加えて彼女の悪魔の実の能力はなかなか強力だ。戦闘向きではないと彼女は言ったが、人に憑りついて意のままに操ることができるなら、条件付きだとしてもそこらのチンピラくらい目じゃないだろう。


「でも、あなたが間に入ってくれて助かった。負けはしないだろうけど、わたし、あの人に同情して逃がしていたかもしれない」

「同情……?」

「ほんの少し、彼の気持ちが分かるから」

「お前さっきストーカー気持ち悪いって言ってなかったか」


確かに言った。彼女には珍しい大声で叫んだのをこの耳で聞いた。
あれは、男の殺意を女から自分に逸らすために口から出た言葉だろうが、丸っきりの嘘でもないだろう。


「憎くて憎くて仕方がないのに、それでもその人に愛されたいという気持ち」


痛みを堪えるように、彼女は言った。
その先は聞きたくないのに、彼女の言い方があまりにも悲痛で、遮ることができない。


「憎くて、でも愛しくて、どうしてもその人の呪縛から抜け出せない。どんなに忘れようとしても、その人の存在が心の底から出て行ってくれない。まるで醒めることのない悪夢だよ。彼のしたことは最低だったと思うけど……苦しかっただろうな、と思うの」

「わからねェな。憎いものは憎い。お前にはいるのか。そんなことを思う相手が」

「……じゃなきゃ、そいつのために10年もこんな仕事してない」


独り言のように呟いて、彼女はそれきり黙った。再び沈黙が訪れる。

初恋の男を探していると彼女は言った。おそらく愛憎相半ばする相手とは、その男のことなのだろう。
強烈な感情がなければ10年もの長い間追い続けることはできない。己に気があると告白した男の前で、よくそんなデリカシーの無いことが言えたものだ。もう少し得意の話術ではぐらかすなりすればいいだろうに。
…いや、これは八つ当たりか。彼女がはぐらかしたところでおれは答えを知るまで問い続けただろうし、第一、彼女におれを気遣う義理は無い。

嫌な気分だ。初恋の相手がいると聞いた時点で既に黒い気持ちが渦巻いていたが、10年とは思ったよりもかなり長い。それだけ執着した相手の前に割り込むのは、容易ではない。
改めて、彼女を攻略するには彼女と過ごす時間が必要だと思った。

自分にはもう時間がない以上、それは叶わないことだろうな、とも思った。



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