これほどの悪天候に遭うのは久しぶりだ。荒れ狂う海の上でハニーは思った。

可愛いライオンが船首に据えられた船はたった今、鯨の群れと共に海の上に勢いよく浮上した。

数日ぶりに海の底から外に飛び出し、船員は外の空気を堪能した。
それぞれ魚人島を楽しんだようだがやはり水の底は息が詰まったようで、今まで息苦しかったわけでもないのに、特に能力者たちは大きく深呼吸をしていた。
深呼吸を終えると、それぞれが現状を把握し、船体を安定させるべく走り回る。
海の様子を常に見ているために船内にいるわけにはいかないナミは一番にレインコートを取りに行き、既に準備に取り掛かっている。サンジは捕まえた深海魚を捌き、ブルックは鯨の群れに何やら思うところがあるらしく感動に泣いていた。

基本この船は、不測の事態が起こったとき、慌てて行動する組と落ち着き払っている組に分かれる。特に腕っぷしに自信がある面子が基本、落ち着き払っている組だ。ルフィだけはただ一人、慌ても落ち着きもせず、興奮する組だが。
ハニーは落ち着いている組ではなかった。
一味は何が起きても全員で乗り越えてきたのだろう、ギャーギャー言いながらもそれぞれするべきことは決まっているようだったが、ハニーはこの船に乗ってから日が浅い。
この船の主戦力ほど腕っぷしに自信があるわけでもない彼女は、不思議なことが起こる世界の広さに興奮半分、たとえ能力者でなくとも投げ出されたら一巻の終わりだろう荒れようの海に恐怖半分、冷静にはなれなかった。

落ちて火の海に焼かれないようにしないとね、と慰めなのかわからない言葉をロビンにかけられたが、それは死に方としてはあまりに傑作だねと返すのが彼女にはやっとだった。

文字通りの火の海を前に、緊張のせいか逆に笑える。


「ハニーちゃんは船内に入っておれの仕事を手伝ってくれ!」


何か自分にできることはないかと周りを窺っているのを見かねたのか、サンジがハニーに声をかける。

こうやって指示をくれる人はありがたいと急いでハニーが船内に入ったところで、突然電伝虫が変な声を上げて号泣しだした。
緊急信号だ。酷い顔をしているが、それが緊急さをよく表している。
電伝虫が鳴く。取る。喋る。その単純な図式しか無いだろうこの船の船長にロビンと共に警告するが、即断即決のルフィには通じなかった。


「緊急信号の信憑性は50%以下よ!」

「罠かもしれない、ルフィ待って取らないで!」

「もしもしおれはルフィ!!海賊王になる男だ!!」

「取んの早いし喋りすぎだァ!!」


周りの声を一切無視して電伝虫をとったルフィにウソップからのツッコミが飛んだ。
この感じ覚えがあるなと、ハニーは懐かしく思う。
外で作業していた他の船員も、電伝虫から聞こえる必死に助けを求める声に聞き入っていた。

――――サムライに殺される。

そう言って切れてしまった通信に、ゾロとブルックが反応した。どうやら二人は侍を知っているらしい。
ワノ国は鎖国国家だが、剣士としてはその存在は無視できないもののようだ。

結局、通話相手を助けに行くと言ったルフィを誰一人止められず、一味は当初の目的地ではない、パンクハザードに向かうこととなった。
行く人はくじ引きで決めた。確率は半分。ハニーはルフィのお守りに任命された。

ルフィと離れなくてよかった。ロビンとも。

まだ皆に馴染みきっていないハニーは、少しでも付き合いの長いロビンとできれば離れたくなかった。
そしてルフィには、彼女の目の届くところにいて欲しかった。何をしでかすか分からないのは兄と一緒だと、ハニーは微笑ましくも少し苦しい気持ちになっていた。

物騒な通信からして、パンクハザードは魚人島と違って楽しくはなさそうな島である。ハニーはこれから起こることについて大体の予想をしていた。苦労はしても利益はなさそうな島だと。

そんな島でもルフィは自ら楽しみを見つけて冒険をするのだろう。その天真爛漫さが彼女を救っている。
島に入りたくない病を発症するほど振り回されているウソップに同情しつつ、ぎゅうぎゅうの後部座席で、彼女はサンジのお弁当を頬張った。
早々に自分の分を食べ終えおれにもくれと後ろを向くルフィに、前を向いて運転してほしいと言いかけたが、ロビンの腕がハンドルに生えているのに気づいて、彼女は心置きなく餌付けを開始した。





―――――――――――――――――





「きみ達と一緒だと、毎分毎秒が冒険だね」


特定の誰かに話しかけるでもなくそう言ったハニーは、目まぐるしく変わる環境に少し疲れていた。
そこかしこに炎が揺らめく灼熱の大地にいたかと思えば、氷の海に投げ出され、今はワニ男の大きな背の上。
敵を捕らえて利用するあたり、ルフィは容赦がなかった。この男は珍しい動物とすぐ関わりたがる。
疾走するワニは早いが、その分風も強い。敵のコートを人数分奪って着たはいいが、濡れた服の上にコート一枚着たところで、体に当たる雪風は十分に寒かった。ワニ男…茶ひげを風避けにしてルフィ以外の皆が話している横で、ハニーは寒さのせいで少しぼんやりした頭で考える。

ワニ男は元々は人間の筈だ。しかしこの本物としか思えないワニの胴体は一体何?


「ワニ太郎、きみスマイルなの?」

「黙れ!何がスマイルだ、最悪の気分だ!」

「……」


そうとしか思えないのに、とハニーは呟く。

この二年ほど世間を騒がせているルーキーに隠れて、いくつか上がった賞金首の数々。
この男は茶ひげ。白ひげの傾覆に乗じて、領地を得ようと町々を脅かした海賊たちの一人だった筈だと、ハニーは記憶を探る。
確かに手配書で顔しか見たことはないが、こんな胴体なら髭の色より先に、人間の顔にワニの体の方が特徴的だ。こいつを見かけたら犯罪者ですと貼り出すなら、手配書には全身が写されて然るべきではないだろうか。
だから、賞金首になった時点ではまだ、こんなに個性的ではなかった筈なのだ。
天候といい、生物といい、この島には何だか――――秘密がありそう。

ハニーの背中を、寒気が走った。

スマイルでないとすれば、あとはあの男の仕業としか考えられないのだけれど。
まさか、こんな偶然は無いだろう。きっと。


「ブルック、別に寒くないでしょ。そのコート頂戴よ」

「嫌ですよハニーさんヒドい!見てくださいよホラ、王冠の上にこんなに雪が溜まって寒々しい!」

「ブルックお前肌ねェのに寒いわけねェだろ」

「気分ですよォ!!」

「そういえばナミなんかビキニじゃない。敵の人皮を剥いででも暖かくしてればいいけど」

「そうね。凍傷で手足がもげてなきゃいいけど」

「お前らヤメロ!!!」


ワニ男が雪を掻き分けもすもす走る。

一行は建物のある方に向かっている。
茶ひげの頭にルフィの頭の大きさくらいのお団子ができるくらい痛めつけて、場所を吐かせたのだ。
ルフィは言うことを利かない動物を殴って躾けるきらいがある。そのくせ、動物たちに変に懐かれやすい。
単純に強いものに従うという本能丸出しの野生の為せる業である。

研究所のほうからは物が壊れるような大きな音がしている。茶ひげが一味を謀っているかは研究所に着くまで分からないが、向かっている方向に人がいるのは間違いない。


「ファ……」

「……っふ」


ゾロが一つあくびをしたのにつられて、ハニーもあくびをした。
おいおい、とウソップが呆れた声を出した。


「お前ら、ずいぶん緊張感がねェな。ゾロはともかく……お前はもっと怖がりだと思ってたぜ、ハニー」


ロビンが微笑ましそうに二人を見てふふ、と笑った。ゾロは気にした様子もないが、ロビンに声が漏れるほど笑われたとハニーは少し恥ずかしそうに口元を隠す。ウソップには、寒いとあくびが出ちゃわない?と照れくさそうに返した。


「そうか?おれは暖かいときに出るけどなあ」

「寒いと代謝が下がるからかな……。あくびが出たらすぐもう一枚服を着なさいって、わたしの故郷では言われてたよ」

「そういやお前、どこの海出身なんだ?生まれから“偉大なる航路グランドライン”か?」

あくびで出た涙を拭いながら、ゾロが訊く。
麦わら一味は船長の出身が“東の海イーストブルー”というのもあり、半数が“東の海”出身だ。
島から島へ簡単に渡れるわけではないので、世界の人々はそのほとんどが生まれた国で一生を終える。
しかし実際にこうして旅をしていると、実にいろいろな出身地の人間と出会うことになる。ロビンのように世間から身を隠しながら放浪して、“西の海ウェストブルー”から“偉大なる航路”に入る人間もいる。

ハニーがサウザンドサニー号に乗ったのは、シャボンディ諸島からだ。それぞれが修行を終えてシャボンディ諸島に集合したその時に、ロビンに付いてちゃっかり便乗した。
彼女も、“コック”や“航海士”、“音楽家”などと同じように、一応の役職は決まっているが、ルフィが乗船を許可したのはノリである。彼女はいくつかウケのいい持ちネタを持っていた。


「“北の海ノースブルー”だよ。冬島で、こんな吹雪の日が多い島だった……」

「そうか。興味ねェ」

「はァ…この気まぐれ剣士。会話も迷子なのかしら」

「あァ!?」


長い話が始まりそうだと先手を打って会話を終わらせようとしたゾロだが、自分から話を振ったくせにぶった切る様子があまりに会話下手で、ハニーは条件反射のように煽った。
ゾロがガラの悪い声で応戦するように唸る。

ゾロがサンジや敵以外に喧嘩を売られて反応するのは珍しい。
喧嘩をする価値も無いと判断したら、適当にあしらうか無視を決め込むのが彼の常だ。
相手にしようと思える程度にはハニーはゾロに気に入られているのかもしれないと、ロビンは密かに笑った。

ヨホホ若いですねェ、とブルックが仲裁を兼ねて、二人の会話に割って入る。


「ハニーさんは“北の海”からどうして“偉大なる航路”へ?」

「んー……いろいろだよ。初恋の人の手がかりを探して、とかね」

「あら……言っていいの?秘密だと思ってたわ」

「うん。隠すことじゃないもの」

「ヨホホ!初恋の人とは!!いやー甘酸っぱくていいですねェ。どんな人なんです?」

「命の恩人なの。背が高くて笑顔が素敵な海兵さんなんだけどね、すごく優しくてかっこよくって」

「イヤお前、海兵に会いてェのに海賊船乗ってちゃ駄目だろ」


うっとりとした表情で惚気始めたハニーに、ウソップが呆れたようにツッコミを入れる。

後ろでそんな会話をしていると、ルフィが無残に壊れた軍艦を発見し声を上げた。
茶ひげの頭に乗っているルフィが一番、前がよく見えるところにいる。
遅ればせながら茶ひげの大きな体から顔を覗かせたハニーは、冷え切った体をさらに強張らせた。

――――トラファルガー・ロー!

ハニーは思わず声を上げそうになったが、ぐっと堪えた。ロビンが彼の名を他のメンバーに教えると、ゾロが思い出したようにああ、と言った。
一味は全員、二年前のシャボンティ諸島で彼の姿形と能力を目の当たりにしている。ウソップはその後の経験が衝撃的すぎてあまり印象には残っていなかったが、ゾロは憶えていたようだ。目立つ大剣と剣士としての強さが、同じ剣士として記憶せずにはいられなかったのだろう。


「そうそう、トラフォッ…トラフグ…?トラフォル…トラ男だ!!」

「…頂上戦争で、ルフィとジンベエを救助したのは彼だよ」

「ん?ハニーお前、何で知ってんだ?そうさジンベエと同じ様に、あいつも命の恩人なんだ!」


ローが “女ヶ島”にルフィを送り届けてから、丸二年。ルフィが意識を取り戻し礼を言う前に彼は出航してしまったので、会えて嬉しいと茶ひげから飛び降りて、ルフィはローに走り寄った。そして親しげに話しかける。
ルフィは大雑把な性格だが感謝の気持ちを忘れたりしないので素直に感謝の意を示した。
彼は心からローとの再会を喜んでいた。

ハニーは無意識に、コートの襟を掴んで引き上げた。
その後ろで、ウソップがロー以外の人の存在に気づく。海兵が倒れていると聞いてゾロもそちらを向いた。ローを目にして変な反応を見せたハニーを気にしていたロビンも、そちらに視線を向けた。


「――――よく生きてたもんだな、麦わら屋」


誰も気づかなかった。ローの目の前にいるルフィも。
話しかけたルフィに答えながらも、彼の意識は別のところにあった。
ルフィの後ろ、茶ひげの背中に乗る五人の中。二年前、潜水艦の上で会った濡れ羽色。

薄い唇をぺろりと舐めたローに、誰も気づかなかった。




前へ 次へ


戻る

海獺