グラスミキサー
「ハニー、大丈夫か?今マクワとカブさんが話してたこと、意味分かったか?」
「……はい」
「よかった。ビートとマリィも大丈夫か?」
むすっとしながらもハニーはキバナの問いかけには返事をするようになった。
まだすっかり素直とは言えない様子だが、態度に何らかの変化が出ている。
先日の会議の様子だと、彼女を変えることは果たして可能なのだろうかと、もしかしたら一年後も十年後もずっと変わらず生意気なままリーグを滅茶苦茶にしていくのではないかとさえ危惧していたジムリーダー達は胸を撫で下ろした。
失言をしても、とりあえずばつの悪そうな顔をして黙るようにはなったという小さな進歩でも喜ばしかった。たとえ些細な変化でも『彼女は変わることができる』と証明されたことは、ジムリーダー達のストレスを軽減するには十分だ。
今度は机を蹴り倒して出ていくかそもそも招集無視くらいの想定をしていただけに、彼らの喜びも大きかった。
そんな調子で会議は順調に進行していた。
ここまでで何か意見がある人、とキバナが周囲に水を向ける。
キバナが彼女を制御できている。そう判断したジムリーダー達は、おそらくプライベートでは返事もしてくれないだろうことは予想できたので、キバナがいる会議中にハニーへの用事を済ませることにした。
「チャンピオンの試合見学希望がマイナーリーグから結構出ているみたいなんだ。都合のいい日を教えてくれないかい?」
「マイナーリーグなんてここにいる人達よりもっと弱いってことでしょう。会いたくもないです」
「ハニー」
「む……」
カブは肩を落とした。
「事務所に私とあなたのコラボ写真を載せたいって言われてるの。やる気はない?」
「なんでわたしが写真なんか撮られなきゃいけないんですか。わたし、バトルしかしないです」
「ハニー」
「う……」
ルリナはこめかみを押さえた。
「今期のジムチャレンジではお手合わせ出来なかったので、一度我がジムで親善試合をしていただきたいのですが」
「どうせ弱いので時間の無駄です」
「ハニー」
「あう……」
サイトウは二の句が継げなかった。
「……」
このチャンピオン――――学習しねえ!!
叫びたくなったジムリーダーはネズだけではない。ハニーが一言喋るたびに、ゲンガーが一歩ずつ這いよって来るかのように、会議室は暗い闇に落とされていく。
彼女の教育には忍耐が必要なのだと彼らは思い知らされる。少しずつの進歩でも嬉しいと思った直後だが、しかしこうも歩みが遅いと頭を抱えたくもなる。
室内に後頭部が見える割合が多くなってきたことに気付いたキバナが、仕方ないなと呟いてパソコンを閉じた。
「1回休憩入れるか。次は20分後だ。オレさまちょっと電話しなきゃいけないから長めだけど、みんな適当に話しといてくれ」
そう言って、爽やかに笑いながらキバナはハニーの腕を引いて立たせた。
「あ、え?」無理矢理立たされ、彼女は戸惑う。文句を言う暇もなくキバナに連れられ、会議室を出て行った。
休憩を宣言して嵐のように出て行った彼らをただ見送ったジムリーダー達は、いつの間にか緊張していた体から力を抜いて、口々に二回目の会議の感想を言い合った。
「…マシになってたね」
「ああ、マシだった」
「マシでしたね」
諸手を上げて大喜びできるほどでもないが、事態は深刻というわけでもない。
“マシになっていた”というのが、彼らにとって一番しっくり来る表現だった。
生意気なのは相変わらずだが、ほんの少しでも歩み寄りを見せた子供を辛辣に批判するほど彼らは狭量ではない。
「…キバナさんって……怒るんでしょうか……」
オニオンは彼女に少し同情的で、彼女の心配をできるくらいには余裕を取り戻していた。人前で意見を言うことや、ちょっとした挨拶が苦手な気持ちは彼にもよく分かる。
キバナがハニーを連れ出したのは、電話に対応している間、彼女を会議室に置きっぱなしにしていくのが不安だったのだろうと思ったが、もしかしたら説教をしに行ったのかもしれないとオニオンはネガティブな想像を働かせてしまった。
「バトルで熱くなってんのはしょっちゅうあるけどね。どうだろう」
「温厚な人ほど怒ったら怖いって言うし、もしかしてハニー、キバナに叱られた事があるから大人しくなるのかしら……うーん」
「チャンピオンでも、あんな女の子がキバナくらい大きい男に怒られたら怖いだろうね……」
もしかしたら、この会議室を出てどこか人目につかないところでキバナがハニーを厳しく叱りつけているかもしれない。
彼女の生意気を笑顔でいなしているように見えて、実は腸が煮えくり返っていて今頃彼女をどやしつけているかもしれない。
普段キバナと接している人間からしたらそんな展開は想像もつかないが、なにせハニーはこれまで誰も見た事のないほどの度を越えた暴君であり傍若無人だ。
普段はそんなに大人気なくもないネズが額に血管を浮かべるくらいだから、キバナが内心怒っていても不思議ではない。
彼らは誰かが発言するたびに不安を募らせていた。
戻ってきたときハニーに泣き跡なんかあろうものなら大ごとだ。キバナのイメージが悪くなるし、生意気とはいえ泣くまで説教されるのはさすがに可哀想だ。
探しに行くべきかしら、とルリナが呟く。
でもキバナに教育係は任せろって言われているし、とヤロー。
会議の休憩時間は、トレーニングのやり方だったりそれぞれの町の旬の食材だったり、有益な情報交換の時間だった筈なのに、ここにいなくても新チャンピオンには悩まされるのだ。
誰もが手を上げなかった中で、キバナが教育係を買って出たのだ。ここでキバナとハニーの間に入ることは、見方を変えればキバナに全てを押し付けたくせに横から口だけ出す、などという恥知らずな真似になる。
しかし、相手は見た目には可愛い女の子だし……。いやそもそも、キバナが怒っているとも限らないし……。
結局、普段は育児に積極的に関わってこないくせに躾をしているときに限って夫が甘い顔をするのはムカつくものだし本人のためにならない、とメロンが実体験を交えて説得したおかげで、ジムリーダー達がキバナ達を追うことはなかった。
「よっしゃ、間に合った!ふぅ……」
時間ギリギリにキバナ達が戻ってきたとき、ジムリーダー達は一斉に扉の方を振り返った。
皆の心配を知らないキバナは、何故だかすっきりした晴れやかな顔だ。浅黒い肌が心做しか会議室を出たときよりツヤツヤしていた。
そしてキバナに手を引かれるハニーは、俯いてキバナに握られていないもう片方の手でスカートをぎゅっと握り、もじもじして歩きにくそうにしている。
顔がなんとなく赤いことを除けば、泣き跡も無いし、普段どおりだ。
ジムリーダー達は杞憂に終わったことに脱力した。キバナはやはり人格者だったのだと。
キバナとハニーを見つめる皆を怪訝に思いながらも、キバナはハニーのために椅子を引いてやり、丁寧に座らせた。
「さて、再開するか!……あれ、ネズは?」
「外にトイレ探しにいったよ〜。なんかここのトイレずっと使用中だったみたいでさあ」
「あー……」
同じ席に着き、キバナが再びパソコンを開きながら周囲を見渡すと、ポプラとヤローの間の席が空いている。
隣のヤローが答えると、キバナはヤローから目線を外して頬を掻いた。
そして、キバナは隣のハニーに目を落とす。目が合った瞬間、ハニーがびくっと小さく肩を震わせたのに気付いた者はいなかった。
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会議終了後、早く帰りたがってキバナの袖を引いたハニーを、先に出て待っててくれと扉の外へ促したキバナに、ルリナやネズが声を掛けた。
「手懐けたわね」
「オレらの言うことはキバナ経由じゃないと聞かねえみたいですけどね」
皮肉るように言うネズと違って、ルリナは心底感心していた。
一人の人間の女の子に使うような言葉ではなかったかもしれないが、ルリナにとってハニーは懐きにくいとされるゴロンダやサザンドラと同格だ。それ故に、ハニーの態度を軟化させたキバナの手腕には恐れ入るばかりだった。
オニオンもチャンピオンの変化に戸惑いながらも興味深いようで、話に加わってきた。
「どうやったんですか……?」
「んー……」
キバナは顎に手を当てて考えた。
苦労したんだぜーと言ってもいいのだが、キバナは影で努力し、ファンや他のジムリーダーの前では余裕ぶりたい男である。
少し考えた末、なんでもない風に嘯いた。
「ま、生意気でもちゃんと女の子ってことだな」
意味深な彼の言葉に、ジムリーダー達は首を傾げるばかりだった。
海獺