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痛覚など無くなって久しい。心が感じる痛みも少なくなった。それは恐らく長らく戦場にいることの慣れであった。仲間が目の前でたくさん死んでいく。今度も間に合わなかった。まただ。どうしてこんなに弱い、どうしてこれほど足が遅い。もっと己に力があればと後悔する時間があれば鍛錬するしかない。杏寿郎が言っていたように食いしばって前を向く。時間はともに悲しんではくれない。悲しみをいちいち引き摺っていてはそれこそ身が持たない。
鬼殺の為には何でもしてこその鬼殺隊である。友人と呼べるほど仲が良かった友が死んだ時でさえ、任務は次から次へと舞い込んでくる。蹲っていては救えるものが救えなくなる。骸は元には戻らない。
死んでいった者の最期の伝言を伝えたとて、お前が一緒にいたくせにと仲間から詰られることだって少なくない。鬼殺隊を知らぬ親戚や近所の住人ならなおさらだった。
わたしが弱いから。ごめんなさい。ごめんなさい。許してなんて言わないし、言えない。
たった一つしかない命を賭けることは、最初はとても恐ろしかった、のだと思う。無くなったら終わり。迫り来る痛みと恐怖。走って走って逃げて戦って生き延びても、その先にあるのは死だ。だが逃げなくても死ぬ。
腹を刺されても炭治郎は生き延びたが、平の隊士が同じ傷を負えばもう終わりだ。呼吸術で肉体強化していようが所詮は人間なのだから。
任務地が山奥などになると医療体制だって充実しておらず最寄りの藤の家も遠く、深く傷つくと取り返しがつかない。腕を引きちぎられ痛みと恐怖の中で息を引き取った隊士や、血気術で火傷を負いなかなか死ねない中でようやっと死んでいった隊士もいた。腹に鬼の爪が貫通して死んだ隊士、頭を強く打って死んだ隊士。辛くて苦しいから殺してくれと請われたこともあった。そこに名誉の死なんてない。犬死にだ。人間より圧倒的に強い鬼との戦いなどいつだって残酷で不毛だ。命を賭けるなんて本来馬鹿馬鹿しい。何ができるというのだ。人はあっけなく死ぬ。率先して鬼の養分になってどうする。
人の肉と呼びたくない冷たい肉のような何かが覆い被さる中、絶え間なく降り注いでくる血と泥水を飲みながら鬼に反撃する隙を狙っていたこともあった。間違って仲間の死体を踏んでしまったこともあった。靴の裏に感じる肉の感触。肉の壁。血の味。喉の奥にこびりついて離れない。もう誰も命なんて賭けなくていい。死体を見たくない。誰かが死ぬのはこれ以上見たくない。それでも動かなければ誰かが死ぬ。
もう知らなかった時に戻ることはできない。
井戸の方からする水音で瞼をあける。今日は獪岳もなまえも非番であったので二人とも家にいる。獪岳は他者の気配に敏感なため、部屋が分かれていようがなまえが起きるとだいたい目が覚めてしまった。もとより夜が活動時間の鬼殺隊士で夜に熟睡できる者など稀であろうが。
ぐる、と獣が唸るような音もして、またかと獪岳はひっそり溜息をついた。鬼が出たとかそういった類の話であれば余程良いのだが、違うだろうと念のため日輪刀を携えて庭に出る。
井戸のそばには、蹲って吐いているなまえがいた。夜着の浴衣から出ている腕や足はもう既に血だらけで、また胡蝶姉に泣かれるなと思った。獪岳は胡蝶姉妹のことが苦手なので面倒くさいことこの上ない。
女の肩を掴むとどこを見ているのかも分からない目が暗闇の中でぼんやりと光って、涙を流している。
師範となったなまえに痛覚がないことは継子になってしばらくすると気がついた。血が出ていなければ怪我にも気づかない。たとえ体の異常に気がついていても痛みがないせいか放置しがちで、傷がなかなか治らない。だから蝶屋敷では毎度の如く怒られている。
そして時折痛みが復活するのか発作的に夜中に古傷を掻きむしる。強く掻きむしるので治っていたはずの傷からは血が吹き出し、短く切ってある爪には肉片が溜まっているのはお馴染みである。手のひらは血だらけでなかなか悍ましい光景であった。
今日は発作が収まるのが早かったようで悲惨さで言えばかなりマシと言える。酷い時は悪い夢でも見ているのか仲間の死の瞬間でも思い出すのか、死なないで、ごめんなさいと泣きじゃくる。悲鳴をあげのたうち回っているので、体を無理やり抑えつけて一晩過ごさねばならぬときもあった。なまえも呼吸を使って逃れようとしてくるので、そういった際はとても骨が折れた。
すぐそばの井戸で手拭いを濡らし、血を拭ってやる。獪岳は自分のことしか興味はないが、さすがに今の状態のなまえを無視して通り過ぎることは難しかった。めんどくせえと思いながら爪の間の肉を雑に処理してやっていると、なまえはごめんね、ごめんなさい、と誰に言っているのかわからないような謝罪を口にした。
なまえは獪岳より余程強かった。そして素早かった。剣技でも体術でも強い。まだ勝てない。
だが心は獪岳よりずっと弱いのではないだろうかと思う。表情は少なく誰に対しても基本的に微笑んでいるが、人の生死にはかなり敏感だ。
先日の杏寿郎の件もそうだ。地雷を踏んだ瞬間はよく分からなかったが、なまえは自分の命を蔑ろにしようとした隊士には烈火の如く怒る。そういったときには獪岳にしか見せないはずの感情を剥き出しにする。それはとても気に食わないことだった。
女は自分は獪岳に似ていると言う。全くそんなことはない。他者に興味がないから戦場で死んでいく仲間を弱い汚いと思いはすれど悼んだりする気持ちはない。むしろ死んで当然とすら思う。この女はそんなことは全く思っていないではないか。何が似ているだ。
「獪岳‥いつもありがとう‥」
意識が回復してきたなまえが獪岳に甘えるようにもたれかかってくる。獪岳は無意識のうちに腕を回して抱き締めていた。血がついて汚れようがなんだろうが構わなかった。
「別にいい」
そう、お前が唯一俺にこうして弱さを見せつけてくると言うのであれば、もうそれでいい。俺はお前の一番弱いところ、特別なところを握っている。他の人間に渡すつもりはない。お前は俺にだけ、甘えていればいいんだ。
獪岳はなまえを背負う。夜中だがこの傷だとここで治療するにも面倒だ。いつもより発作の程度は軽いが、ざっと見た限りかなり掻きむしっている。そのせいでこの前の列車の任務の治りきっていなかった傷が完全に開いてしまった。
背中の体温を感じるまま、蝶屋敷に運び込むとカナエが着替えもせずすっ飛んできた。怪我をしているのはなまえだというのに、苦しくて今にも死にそうな顔をしながらもくもくと止血して包帯を巻いていく。
「なまえ‥もう寝て‥痛いでしょう」
「痛くないって知ってるじゃないですか」
「痛くしたいわ‥」
カナエがぎゅっと包帯を巻いた腕を握るが、やはりなまえは何も感じないようで苦笑している。カナエは遂に泣きながら縋りついたが、これも発作が起こるといつものことであるので、獪岳は無言でベッドのそばの丸椅子に座っていた。ひたすら面倒だ。お約束というやつが始まるからである。
「いい加減一緒に寝ましょう。ここで獪岳くんも暮らせばいいじゃない?部屋は余っているし、みんなで仲良く暮らして‥きっと楽しいわ。あなたが発作を起こした時もすぐに気づけるもの」
「カナエさん、わたしは自分の屋敷に帰ります」
「もう、いい加減にして!」
「‥あの‥お気持ちはいつも嬉しいんです」
「獪岳くんに背負われてくるなまえを見るのはもう嫌なの。あなたが傷だらけなのも苦しいの」
「本当にごめんなさい‥」
「何がだめ?どうしてだめ?静かに暮らしたいというなまえの考えがわからないわけじゃないわ。でもね、こうして傷ついて、あなたの傷はたとえ治っても治っているわけじゃないの。このまま任務に行かせるのは嫌なのよ‥」
いくら胡蝶姉妹と親しくともカナエが縋ってもなまえはこの屋敷に住むことを了承したためしはないし、泣いたり笑ったり甘えたりすることもない。ただ微笑みながら、真摯に懇々と断る二人の意見は平行線のままだった。先日の竈門炭治郎という隊士は珍しく例外だったが。獪岳は二人を横目に額に傷のある少年のことを思い出し密かに青筋を立てた。なまえはあの隊士を非常に気にかけていて稽古もつけてやると言っていたので、後で裏で締め上げてやろうと考えている。
カナエはいつものごとく強引に頷かせようと泣き落とししようとしていて、しのぶまでやって来た。いよいよ面倒だ。
