07
善逸は夜明けに目を覚ました。まだ夜明けといっても明けきらぬ時刻ではあったが、善逸が起きてしまったのは耳に入ってきた音が聴き慣れた音だったらかもしれなかった。なまえの命の音だ。
爺ちゃんがこわい、修行が痛いと善逸はかつてなまえといつも抱きしめあっていた。善逸の背丈も今より低くて、なまえにしがみつくとその胸からはいつも怖がりな音と、善逸の体温に安心するような音と、いのちの音がした。ぎゅっと抱きしめられると女の子らしいいい匂いがして、善逸はなまえに抱きしめられるのがとても、とても好きだった。善逸は色恋に狂った男であったが、そういった色狂い抜きにして、今でも純粋に愛おしいと思っているのはなまえだけかもしれなかった。
獪岳の音と、カナエの音もする。なまえが怪我をしているらしい。なまえは軽症なのにと言っているが、獪岳はとても怒っていた。どうやら獪岳への攻撃をなまえが庇ったとか、なんとか。なるほど、だからそんな音がするのか。
それでも獪岳から昔感じていた虚しさからくる怒りのような不満そうな音はとても小さくなっていて、善逸にはその理由がわかっている。炭治郎を訪れた二人を見て理解してしまった。獪岳はなまえにとても、とても大切にされているのだ。なまえの特別を貰ったからあんな満足そうな音がしたのだ。ずるい。俺も大切に思われたい。その特別は俺だってほしいよ。
でも善逸だって姉弟子に大切に思われてないわけじゃないのは音を聞けばわかってしまって、むしろベッドの下に蹲る善逸のことをとても心配しているのがわかってしまって。善逸は怒ってもいるし悲しくも思うし、それでも何も言えないのだ。なんでだよ姉ちゃん。わかんないけど俺のこと今でも大切なんだね。
那田蜘蛛山での任務の際、走馬灯のようなものを見た。諦めるなと爺ちゃんに怒られて、そのとき姉ちゃんも善逸が生きてくれなきゃいやだと昔のように泣いていた。姉ちゃんは俺が死んだら泣くだろうか。泣くんだろうな、あんな音させてるんだから。いやだな、死にたくないな。だから薬飲んで体も元に戻さなきゃいけないんだけど、薬苦いんだよなあ。嫌なことばっかりだ。
ある種こちらも聴き慣れてしまった獪岳の怒髪天の音にまたうとうとと眠気がやってくる。姉ちゃんと一緒にいられたころの、幸せな夢が見たい。
朝食の後で炭治郎に連れてこられたのはなまえのいる病室で、善逸は部屋に入る前からなんとなく炭治郎の考えを察して嫌だ嫌だと泣き喚いた。俺だって姉ちゃんと仲直りしたいよ!この前言ったのはぜんっぜん!一個も嘘なんてないに決まってんだろ!けど怖いんだよ!嫌なんだよ!あんな音させてるのにまた姉ちゃんに無視されてみろ!今までも散々無視されてんだけどぉ!また無視されたら本当に正真正銘今度こそ俺は干からびるまで泣くんだけどぉ!ねえ!本当にいやァァァ!!!!!
しかしそんな善逸の介護も炭治郎はすっかり手慣れていて、腹の怪我もないかのようにぽいっと善逸の体を持ち上げて病室に放り投げた。なまえは困ったように、それでも貼り付けたような微笑みを浮かべている。
違うんだよなあ、と善逸は既に泣いているが本気で泣きたくなった。姉ちゃんに昔みたいに笑って欲しいのにどうしたら笑ってくれるのかさっぱりわからない。いのちの音に混じっている雑音がなまえの心配事なのか。取り除きたいのに。
「ねえ、ちゃん」
なまえは善逸の迷子の子供のような呼び声にいよいよ困った様子になったが、今までのように逃げられず無視もできないと悟ると、諦めたようにぽん、とベッドを叩いた。隣に座れ、という動作に善逸は短い手足を動かして、姉弟子に思い切り抱きついた。そして声をあげて泣いた。なまえのいのちの音がする。大好きな音だ。おれがんばっていきてきたから褒めて、と何とか言うと、善逸が大好きよ、生きててくれてありがとう、と優しく言うものだから、善逸は涙が止まらなくなって泣き疲れるまで泣いた。笑わなくなった泣かなくなった姉ちゃん。昔は怪我なんてしたら今の俺みたいにずっと泣いてたのに、泣かなくなっちゃった姉ちゃん。姉ちゃん、それでも俺も大好きだよ。姉ちゃんも生きててくれてありがとう。
気がついた時には病室にひとりきりで寝かせられていて、なまえは獪岳に連れられて帰ってしまったと聞かされた。また獪岳に取られたけど、俺は姉ちゃんに話しかけるのをやっぱり絶対にやめない。兄弟子にとっても大切な姉弟子かもしれないが、善逸にとってもなまえは大好きな姉弟子なのである。ひとりじめは許してはならぬ。
怪我もだいぶ良くなってきて機能回復訓練に入った頃、なまえがやって来たのが音でわかった。獪岳は一緒にいないようである。やったぜ。しかも今日もあの美しきカナエと一緒にいる。驚く炭治郎たちを置いて、嬉しくなって姉ちゃん!と叫んで蝶屋敷をドタドタ走り回り、なまえを見つけて抱きついた。気づいたら善逸とそれほど背丈の変わらないところになまえの顔があることに今更ながら気がついて、とても恥ずかしくなってしまったがそれでも離すことは出来なかった。なまえは善逸をぎゅっと抱き返してくれて、とても気分が良くなった。姉ちゃん可愛い。大好きだ。
来なくていいのに炭治郎と伊之助が遅れてやってきて炭治郎に引き剥がされた。お前の姉ちゃんじゃねーんだぞバカ!俺の姉ちゃんなんだから抱きついてもいいだろうが!だが炭治郎はあの錆兎という名前の水柱の信者なので、男なのに女性にしがみつくなんてカッコ悪いと思わないのか!と怒鳴られた。全然カッコ悪くねえわ!むしろ俺に与えられた正当な権利だわ!姉ちゃん獪岳と一緒に住んでんだから絶対兄貴もこれくらいしてるね!姉ちゃん目の前にして抱きつかない弟弟子の方がどうかしてるね!!!!!!!!!
「まあまあ、二人ったらすごく仲良しなのね」
「喧嘩するほど仲がいいと言いますからね」
カナエとなまえは言い合う俺たちに何だか微笑ましいものを見るような目でこちらを見ているが、違う。そういうのではない。真っ当な喧嘩だ。
しかし今日、幸運なことになまえが機能回復訓練に付き合ってくれると言う話になって、善逸は飛び上がらんばかりに喜んだ。姉ちゃんと柔軟。姉ちゃんと鬼ごっこ!やるやる!
「善逸、痛くない?」
「痛い、めっっちゃいたいねえちゃぁぁん!姉ちゃん痛いよぉ!ねえ!」
「善逸、ちょっと遅いよ」
「姉ちゃん‥絶対追いつかないんだけど‥」
「善逸びしょぬれだね」
「あの‥姉ちゃん‥俺怪我人‥」
怪我人への訓練だというのにまったく手加減を知らない姉弟子に善逸は愕然としたが、目の前には善逸をおもちゃにして昔のようにきらきらと輝きを含んだ目で笑ったなまえがいた。姉ちゃんが笑ってくれたから、俺一生姉ちゃんのおもちゃでいいや。柔軟で痛くされてももういいよ。鬼ごっこで絶対捕まらられない速さで逃げられても、薬湯をぶちまけられてももう本当、全然構わない。
見舞いに来た時に約束したとかなんとか、なまえに呼吸の稽古をつけてもらうにも怪我が治ってからと言われたらしい炭治郎が何度もお願いします!と姉弟子に挑戦してはぼこぼこにされ、勝負しろ女!と威勢よく飛びかかった伊之助もまったく歯が立たず心を折られているのは、なんだかとても気分が良かった。
そうだろう。俺の姉ちゃんは昔は泣いてたけど、今は柱なんかになっちゃうくらい強いんだ。強者の音もするだろう。いいだろう。俺の姉ちゃん。あげないぞ。
