08
みんな無事だ、絶対にそうだ、と荒い呼吸の中思う。轟音を立てて列車は脱線したが、自分も生きていて、車掌も生きていると言う。車両には煉獄さんがついている。
杏寿郎は錆兎の話通りの面倒見の良い、いいひとだった。やはり少し変わったひとではあったがそれでもすごく強い人であることもよくわかった。呼吸の説明も丁寧にしてくれた。ヒノカミ神楽の話は一蹴されてしまったが、元よりよくわからない間で話を進める人らしい。なまえから言われた通りの継子の打診もあってびっくりした。禰豆子と善逸も車両で戦っていたけれど無事でいてほしい。そんなことをぐるぐる考えながら、とにかく息を整える。
「全集中の常中ができるようだな!感心感心!」
杏寿郎がぬっと現れて止血の仕方を教わる。腹の刺されたところに神経を集中させて、ぐぎぎと歯を食いしばって力を込めて。そうすると先ほどまでと周囲の血管の様子が変わり、止血できたのがわかった。何が起きたのかわからないが、呼吸を極めると様々なことが出来るようになるらしい。
杏寿郎の言葉はすんなりと頭に入ってきて、降り積もるように残る。不思議な、人だ。ついていきたくなるような。
「皆無事だ!怪我人は大勢だが命に別条はない、君は無理せず‥」
ドン!と大きな音をたてながら、杏寿郎の後ろに何か落ちてきた。なんだ、あれは。目に何か。あの那田蜘蛛山の累という少年もそうだった。無限列車の鬼もそう。目に数字が書いてあって、でも。上弦の、参。なんでここに?どうしていまここに上弦なんかがいるんだ。
一瞬で上弦の拳が目の前に迫ってきて、杏寿郎が庇ってくれなかったらきっと死んでいた。
「俺と君とでは物事の価値基準が違うようだ」
「お前も鬼にならないか」
とんでもないことになっている。杏寿郎が炭治郎を侮辱されたことに怒っている。鬼に勧誘なんかされている。とても美しいことを言った人は、目で追えない速さで上弦の鬼と対峙している。なんとかしたいのに体が重くて動かない。待機命令まで出された。あの攻撃の中で、そんな。どうしたら。
杏寿郎と猗窩座の技がぶつかり合った時、その絶技が全て消えた。何かに吸い込まれたかのように無くなってしまった。
え、と思うとそこに黒い喪服を羽織ったなまえが、日輪刀を携えてストンと落ちてきた。額と腹のあたりに傷のついた杏寿郎を庇うように、斜め前に立つようにして構える。杏寿郎も驚いたように目を見開いた。
「何だお前は。杏寿郎との邪魔をするな女。俺は女と闘わない」
猗窩座がイラついたように、なまえに向かって指をさして問い詰めた。なまえは微笑んでいる。
「知っていますよ。こんばんは、猗窩座さん。いい夜ですね。それから、煉獄さんは車両と炭治郎さんたちに斬撃が及ばないように守りを固めていただきたいです」
なまえは構えをやめると突然、彼女がひとつにまとめていた長い髪を日輪刀で根元からざっと切り取った。左手から長かった髪が虚空へ散っていく。残った飾りの赤い櫛だけを握りしめていた。
言わずもがな大正の世において、まだまだ女の髪は命である。都会では短めの髪も流行っていると聞くが、価値観として男のような短さの髪などありえぬ話であった。
ざんばらになってしまった髪が落ちる。猗窩座は何のつもりだと歯を剥き出しにして激怒した。
しかしそれ以上に唐突に怒ったのはなまえであった。
普段の穏やかな表情が嘘のように叫ぶ。檻から開け放たれて興奮する獅子や竜の幻影でも見えそうなほどの、びりびりと肌を刺すほどの怒気と激情であった。
「男としか闘わぬと言うのなら、男になるまで!髪などいらぬ!子袋と乳房もいらぬ!!!貴様にやろう!だから拳を交えろ、猗窩座!お前はここで必ず殺すッ!!!」
「クソがァァァ!クソクソがァ!俺は猗窩座!上弦の参!お前の名を教えろ、このクソアマァ!お前の闘気と漢気に免じてその意気買ってやろう!!!」
「みょうじなまえ、錐柱。お前を殺す柱の名だ!地獄に行っても覚えておくがいい!」
猗窩座の拳をなまえの剣技が刈り取るように吹っ飛ばす。しかしそれでいて猗窩座もなまえの脇腹にいくつもの傷をつけ、なまえの腕からも血が流れていた。顔ももう傷だらけだ。猗窩座の傷はすぐ治ってしまう。それでもなまえは斬撃をやめない。すぐに間合いに入る。
杏寿郎が助太刀しようとしたがなまえが邪魔だ!と叫んだ。
猗窩座の血気術で飛ばされそうになっても彼女は空中で身をかわして、剣を一振りすると暴風がなくなった。
まるで日輪刀に吸い込まれたかのような、特殊な剣技だった。先程見たものだ。
ブチブチと猗窩座は青筋をたてて、猗窩座のほうが距離をとるように地面を踏みしめたとき。
奇妙な動きで瞬時にまた間合いに入ったなまえの口から出た呼吸は、錐の呼吸なのかもしれないが不思議な呼吸だった。
刀がまるい軌道を描く。見ていた炭治郎には一瞬、時が止まって見えた。ヒノカミ神楽の炎舞のように見えた。刀身から押し出される赤い稲妻と揺らぎは、炎の呼吸のようでも、雷の呼吸のようでもあった。それは猗窩座の頸をぷっつりと刈り取る。
そのままなまえは受け身を取るように猗窩座の後ろに転がった。猗窩座の頸が落ちたとき、朝陽が登ってくる。猗窩座はそれでもなお止血し、驚くことに再生し逃げようとしていたが、なまえは咆哮を上げながら猗窩座の足を穴だらけにしていく。
絶対に殺すことを諦めないという強固な意思。まさしく死闘と言うほかない戦いぶりであった。
「わたしはお前より強いッ!地獄でよろしくやってろ!!!クソが!!!!!!!!殺した人の分だけ血で焼かれてくるといいッ!!!!!!!!!!!!!!!!!」
猗窩座は燃え、塵となって消えていた。
そんな吠えるような捨て台詞を吐いたなまえに獪岳が合流してきた。
ぜえぜえと肩で呼吸している彼になまえは血だらけのまま乗客の救助の指示を出している。獪岳が怒るがなまえ本人は痛ましい血みどろの顔で、しかし先ほどまで吠えていたのが嘘のような表情で穏やかににこにことしている。
無限列車の前には、大量の穴が空いていた。
「煉獄さん、炭治郎さん、伊之助さん。お疲れ様でした。あとは隠の方とわたしたちがやりますので、お休みください」
「俺はきみよりずっと軽症だ。休んでいてくれ。俺が動く」
「そうですか。ならばお願いします」
なまえは杏寿郎を一瞥すると炭治郎のほうに近寄ってきて、腹の怪我の具合をみてくれた。伊之助が興奮したようにスゲーッお前つえーっ!と叫んでぐるぐると回っているがまずは、
「なまえさん‥俺より、あの、止血を‥ご自分の手当てをしてください‥重症ですよね?」
「これくらいの傷であれば動くのにも問題ありませんよ。慣れていますので」
「あの‥違くて、すごく痛そうで、見ていられなくて」
「そうでしたね。貴方は優しい人だから」
いえ、そう言う問題ではなく。いまいち会話が噛み合わない。
恐らく誰だって今の彼女を見たら自分の怪我を何とかしてくれた言うに違いないほどなまえは傷だらけであった。すごく強かった。すごい闘いだった。全然何をしているのかもわからない速さだった、とにかく凄かった。見ていて強くなりたいと思ったけれど、それは何も出来なかった自分が、目の前の女性が血だらけになっているのがとても悲しく歯痒いからだ。
なまえは目に血が垂れてきたことでようやく自分の状態を把握したような仕草をみせて、懐から出した手ぬぐいで自分の血を拭っていく。
なんだろう、この匂い。鬼を斬ったのにまだ怒っていて悲しんでいて、張りつめた糸のような不思議な気配がする。それから、全然痛そうじゃない。もしかして。
「痛覚が、ないんですか」
「実はそうなんです。全然痛くなくて。不思議ですね。でもどれくらい傷がついているかはわかりますよ。止血できるくらいの状態ですから」
ぐ、と自分が疲れているのも怪我をしているのも忘れて苦しくなった。なんで、どうして。禰豆子の入った道具箱を背負ってきた善逸がなまえを見てぴいぴいと叫ぶように泣いていた。色々あってすごく疲れた。すごく、眠いなあ。みんな助かったことには素直に安心しているんだけど。
起きたらみょうじさんと話をしないとな。伊之助、みょうじさんはすごい怪我なんだぞ。勝負しろなんて今言うんじゃない。善逸が怒って伊之助を殴り飛ばしている。それよりみょうじさんを見てあげてくれ。眩しそうな目で見ているこの人を一人にしないでくれ。どうしてこんなことを思うんだろう。彼女は放っておいたらきっと何もかも守って死んでしまう人なんだ。だから俺は一人にしない。眠そうな炭治郎に気がついて手を伸ばしてきた彼女の手を握って離さない。絶対にだめだ。でもすごく眠い。
