霧雨



「…あれ…」


いない。

いつもなら、お気に入りのレインコートを横において空を見上げる彼女の姿が今日は見えない。

そうだ。会えるのは雨の日だったけれど、雨の日だから会えるというわけでもない。


「………」
「何をボーッと突っ立ってるんですか。」
「うわああああ!?」
「うるさっ…」
「ご…ごめん …」


不機嫌そうな彼女はいつも通りベンチに脱いだレインコートを置くと、今日は珍しく紙袋からカフェラテだけでなく、あの店のクッキーも取り出した。いや…

そんなことよりだ。

そんなことより、一二三が気になったのは彼女の首に巻かれている包帯だった。首に包帯を巻くことなんてあるだろうか。一体何をしたらそんなところを怪我するのだろうか。彼女のような普通の女性が。


「それ…」
「ああ…汗疹が酷くて。」
「そっか…」
「こんなところ怪我するわけないじゃないですか。」
「怪我じゃないなら良かった。」
「いっ…!」


一二三が薄く巻かれた包帯にそっと手を添えると、紫陽花はぐっと顔をしかめる。違う、嘘だ。怪我をしている。


「…痛いの?」
「あっ…」


首を怪我するなんて、事故や偶然じゃあり得ない。

嫌な予感がした。

怯えた様子の彼女、首の包帯…


「誰に…」
「飼い猫に引っ掛かれただけです。」
「…それは災難だったね。」
「ええ、全く。」

「あ、髪にゴミがついてるよ。」
「えっ、」
「取るから、じっとしてて。」
「はい…」
「…ごめん。」


一瞬だった。


「ちょっ…」
「これは…」


少し乱暴に包帯をずらされた。余裕をもった前側とは反対に首の後ろは包帯が食い込む。一二三の謝罪の声と共に包帯の下から見えたのは、指の跡のように見える痣。赤黒くなったそれは思わず眉間に皺を寄せてしまうほどに痛ましい。


「…っ……」
「人間の指の跡に見えるけど。」
「猫、です…」
「……」
「猫…」
「本当に?」
「ね、ねこ…」
「そっか…なら良いんだ。」


ごめんね、と紫陽花の頭を撫でる。絶対に納得していないのに、猫だと言い張る自分の言葉を尊重してくれた一二三に少し罪悪感を覚えた。それでもこれは話すわけにはいかないのだ。


「ふざけるなあああ!!!」
「ぁっ…ぐ…」
「紫陽花さん!!」
「誰か!!」
「誰か…ヒプノシスマイクを!」

「何が起きている!」
「無花果様!囚人が暴走を…!」
「やり過ぎたな…紫陽花…!鎮静用の音波を流せ。紫陽花に効いても構わん。死ぬよりマシだ。」
「はい!!」
「ふざける…な…!人をモルモットみたいに…!」
「ぐっ…う…」


紫陽花は人殺しなのだから。