叢雨
「雨、降ってきましたよ。」
「(雨、か…)」
もう少し早く降ってくれれば、あの公園に行けたのに。
そんなことを思ったのが3時間ほど前だっただろうか。
「…な…んで…」
「あー…あれ…?」
いつもとは全く違う雰囲気の彼女。
一体どれだけ酒を飲めばそうなるのだろう、と一二三の中に沸き上がった感情は呆れというより怒りに近いものだった。まだ意識はあるようだけど判断力は大分鈍っているはずだ。あんなに毛嫌いしていたホストクラブのキャッチに捕まるなんて、彼女ならあり得ないのだから。
「一二三さん?知り合いですか?」
「あ、ああ…ちょっとね。」
「……紫陽花です。」
「…よろしくお願いします、紫陽花さん。」
こんな形で、彼女の名前を知りたくなかった。
無意識にグッと拳に力が入る。
一二三が彼女の席にいれる時間なんてほぼないだろう。そこまで悪徳な人間はいないけれど、ホストだって仕事だ。百戦錬磨の強者達対ホストを全く知らない彼女。結果は火を見るより明らか。この瞬間ばっかりは自分の立場を後悔した。
とろん、と眠そうな目をしている紫陽花はいつもの冷めた感じもなく、どちらかというと一二三に会ったときの彼女に近い。今なら、スーツを来た自分にも笑いかけてくれるだろうか。
「さあ、これを飲んで。」
「水…何でぇ…?」
「…こんな状態の君に飲ませられないだろう。」
「…飲めますもん……」
「…はい、これはウーロンハイだから。」
「ウーロンハイ…お酒?」
「お酒だよ。」
「一二三さん?それ、ただの…」
「お酒は飲ませないように、頼むよ。」
「でも、」
「大事な友人なんだ。」
こう言っておけば無理に飲まされることもないだろう。少しの間しか席につけない一二三が出来る限りのことはした。あとは何事もなく、彼女が帰るか閉店の時間を待つだけだ。
接客中もちらちら一二三が彼女の方を確認すると、だんだん酔いが覚めてきたのか最初より明らかにガードが固い。口数も減って、いつもの調子を取り戻しているようだった。
待ちに待った閉店の時間だ。
「また来てよ、紫陽花さん。」
「絶対に嫌です。」
「えぇー!」
「紫陽花さん、外まで送らせてくれないかな。」
「は…」
「ね?」
「…はい。」
会話はない。
外はまだ雨が強く降っている。
彼女は相変わらずお気に入りのレインコートを着ている。いつもよりうんと遅い別れの時間。ネオンぎらつく不夜城から、このまま向こうの闇の中へ消えていくんだろう。暗い色のレインコートにつつまれば、闇に紛れて見失ってしまう。
声もなく、姿も見えなくなってしまったら…
「お世話になりました。」
「ううん。気をつけて。」
「…また、来ます。」
おかしい。
今日の彼女はおかしい。
まだ数えるほどしか会ったことないけれど、それだけはわかる。消えてしまうんじゃないか、そんな先程の感覚がどんどんリアルになっていく気がした。
「すぐ行くから、あの場所で待っててくれないか。」
「帰ります。」
「必ず行くから…」
「…さようなら。」
"さようなら"、その言葉が一二三どうしても別れの言葉には聞こえなかった。一二三に掴まれた腕を見て、一二三を見た彼女の目は今にも涙がこぼれそうだった。
早く、行かなければ。それは、彼女が帰ってしまう、そんな心配ではなくて早く行かなければ彼女が消えてしまうという焦りだった。