糸雨
「紫陽花さん。」
「本当に…」
「約束、しただろう?」
「…律儀な人。」
あんな酔っ払いのお願いを聞いてくれるなんてと笑う彼女につられて一二三も笑った。
しとしとと降る雨に嫌な気はしない。晴れの日も好きだけれども、最近は雨は好きだ。晴れの日に来ても彼女には会えない。雨の日には必ず会える。話だけ聞けばなんてロマンチックなんだろう。ただし、そこには会いたくても雨が降らなければ会えないというもどかしかさは勘定されていない。会いたい時に会えないというのは中々辛いものがある。
それでも彼女にその理由を聞くことは出来なかった。
そこは誰にでもある決して触れてはいけない部分。自分ならば何故女性恐怖症になったのかと言うことを聞かれるのと同レベルのこと。希望の残らないパンドラの箱のようなものだと思っている。
「そろそろ梅雨も終わりですね。」
「…夏は何か予定でも?旅行とか。」
「仕事です。」
「僕もだよ。」
「夏休みはないんですか?」
「調整すれば、少しくらいは取れるかな。」
「いいですね。夏休みなんて、もう…」
何年前だろう、と呟く声は一二三に、しか聞こえない。
「忙しいんだね。」
「え、ええ…」
少しずつ暑くなってきた。
じめじめとして、汗が肌にまとわりつく。不快感が増す。普通の人ならそろそろ梅雨にも飽きてきて、夏が待ち遠しくなる頃。
それでも、今年は夏に早く来てほしいなんて思うことはなかった。
夏が始まるということは、梅雨が終わる。今より会える頻度は少なくなるだろう。夏が終われば台風の季節。紫陽花と一二三はそれまで、
「会えなくなるのかな…」
「…別に何も困らないでしょう、貴方は。」
「まだそんなことを言うのかい、君は。」
「だって、」
「一体何に怯えてるんだ…?」
するりと一二三の指が紫陽花の頬を撫でる。払われるだろうと思ったその手はそのまま紫陽花の涙を拭う。
「貴方です。」
「それ、は…」
「優しくしてくれる貴方が、怖い。」
今の紫陽花はまるで底無し沼に足を踏み入れる寸前のようだ。一歩踏み出したら戻れない、ずぶずぶとハマってしまう。
嘘をつかれるのは慣れていない。そんな紫陽花にとってホストは未知の職業だ。夢を見せるのと嘘をつくのは彼らにとっては同義だと思っている。
何が本当かわからなくなってしまう、曖昧な世界が怖いのだ。拠り所がなくなってしまう気がするのだ。
「…出来れば、ぞんざいに扱ってください。ただの知り合いのように、何も関心を持たず、好かれようとしないでください。」
それが一番楽なんです。
「…友達になろう。」
いい年をして何を言ってるのだろうと思う。三十路間近の大人が、異性に友達になろうだなんて。でも、それでもこの時間をなくしたくないと思った。雨の日の鬱陶しさがなくなるような優しい時間。特に話が盛り上がるわけでもなく、どちらかがぽつりと何かを呟くとそれに返す、そしてしばらくの沈黙。雨を眺めながら考え事をして、また寂しくなったらぽつりと言葉を発する。
「…ともだち…」
「だから、」
さようならなんて言わないでほしい。
「梅雨が明けても、」
「会う機会が少なくなっても」
「台風の季節まで待つから」
「あの、」
「またここに来てほしい。」