天照雨
油断していた。
「一二三!」
昼過ぎから雨が降るという予報に浮かれていた。
3週間ぶりくらいだろうか。あれから全く雨が降らず、紫陽花に会えていなかったから今日の天気予報を見たときは思わず小さくガッツポーズをしてしまった。せっかくの休みだ。夕方になる前にやるべきことを済ませて置こうと買い物に出たときにそれは起きた。
「ぁ…」
彼女は知っている。
何故ならば昨日も一緒に飲んだ自分のお客様だからだ。
親しげに話しかけてくるのも当然だ。昨日はあんなに楽しい時間を過ごしたのだ。嬉しそうに話ながら近づいてくる彼女とは反対に一二三の額には汗がにじむ。バレない程度にじりじりと少しずつ後ろにさがるが相手はどんどん近づいてくるのだから距離なんてあっという間に近づく。
「あっ…あ、あ……」
嫌だ
「一二三?どうしたの?具合でも悪い?」
誰か
「…た…」
助けて
「こんなところで何をしてるんですか。」
聞き覚えのある声は、少し焦りが混じっていた。
「…お兄ちゃん。」
「妹?」
「せっかく妹が上京したのに。これだからホストは。」
「あ……なんで…?」
スーツを着ていない時に会うのは決まって晴れの日な気がする。
目の前に現れた紫陽花に一瞬だけ震えが止まった。
「妹が兄に会いに来るのに理由が必要ですか?随分と薄情ですね。ところでそちらはお客様ですか?」
「うそ…一二三に妹がいるなんて聞いてない!」
「プライベートですので。申し訳ありませんが、お兄ちゃんをお借りしますね。」
「待って!私は一二三と…!」
「まあ、返しませんがね。」
「…えっ……」
にぃっと笑った彼女が取り出したのはヒプノシスマイクだった。それは、一般には出回ってないはず。手に入れるにはそれなりのルートが必要なのに、何故。
マイクを起動させ、初めて見る彼女の不気味な笑顔に一二三の心臓がどくん、と鳴る。恐怖ではなく、何故だか一二三には彼女が輝いて見えた。
彼女の紡ぐ音はラップとは全く別物。綺麗なリリックとは裏腹にまるでじわじわ身体を蝕む毒のよう。女性の興奮は落ち着き、目の光は消える。一二三、と一二三の名前を呼びながら静かに涙を流すとふらふらとシンジュクの人混みの中に消えていった。
「……ぅっ…うう…」
「怪我は?一人で帰れますか?」
「…ぁ…だ…だいじょ…ぶ………」
「なら、結構です。ダメなら私がいなくなったあと、きちんとお友達を呼んでくださいね。」
「まっ…」
「このことはナイショですよ。」
「…紫陽花……ちゃ…」
「どういたしまして。」
彼女はいつもの助けてくれる時の笑顔で、有無を言わさずに去っていった。ヒプノシスマイク、何故女性である彼女が持っていたかはわからない。だけれど、そんなことよりもそれを持てるほど彼女が特別な人であることがわかってしまった方が一二三にとっては衝撃だった。