雨上がり



涙を流す彼女を抱き締めるようにして宥めた。


「ふっ…う…」
「そうか…」


改めて、彼女の言葉を思い出す。

政府直轄の研究機関、ヒプノシスマイクの研究、囚人での人体実験。この体制になるまでは男と女の地位は逆だった。男尊女卑の時代。平等なんてものはない、どちらかが優位にたつ状況しかなかった。いつの日か本当に平等になれる日が来るのかもしれないし来ないのかもしれない。ヒプノシスマイクで男が今の状況をひっくり返したところでまた男尊女卑に戻るだけかもしれない。それでもー

この状況だけは壊さないといけない。

そう思った。


「…あ、」


腕の中の紫陽花を見ると今にも瞼を閉じそうだった。それもそうだ、あれだけ涙を流したのだから。必死に眠気に抵抗してる彼女を少しおかしく思いながら、あやすように頭を撫でる。すると紫陽花の呼吸は数回ゆっくりと瞬きをしたあと、寝息に変わった。そう、今はゆっくり休んで。今だけは嫌なことは忘れてしまえばいい。


「…どうして嫌なことほど忘れられないんだろうね。」


不快になるのをわかっているのに頭にこびりついて離れない。ふとした瞬間に思いまして叫びたくなる。過去の嫌なことを綺麗さっぱり忘れられたのなら、自分も彼女も普通に笑って生きられるのに。

眠りについた彼女をゆっくりと起こさないようにソファーまで運ぶ。いつぞやの痣はすっかり消えてなくなっていた。あれからそんなに経つのか。そうだ。あの時は梅雨、今は秋。今年はやたら雨が多かったなと一二三はぼんやり思った。彼女と何回会っただろう。子猫ちゃんでもない女性とこう何回も会うのなんて何年ぶりだろう。


「もしかして…」


彼女なら、あるいは。

会う回数を重ねて、彼女にはきっと普通の女性とは違う感情を抱いてるのは確かだ。もしかしたらそれは恋や愛情とかではなく、いつもどこかひんやりする彼女の表情を見てきたことからくる庇護欲、憐憫かもしれない。それでも、お店に来る女性とは何かが違う。

ふるふると震える手で、恐る恐るジャケットを脱ぐ。肩、二の腕、肘…


「…っ……やば、」


ジャケット脱ぎかけた瞬間に走る悪寒、震えが止まらなくなり、汗が止まらない。言葉が上手く出てこない。目の前の彼女は2秒前にはあんなに愛しいと思ったはずだったのに今は恐怖でしかない。肘まで下げたジャケットをまた羽織り、彼女の頬を撫でる。

ごめん、と小さく呟いた声が彼女に届くわけもない。こんなにも近くにいるのに、紫陽花との距離は遠く感じてしまう。明らかに違うのだ。素の一二三と、スーツの一二三に対する彼女の反応が。声色、表情、言葉選び。だんだんホストの一二三に慣れてきていることはわかってる。ただ、素の一二三を見ると彼女はどこか安心したような表情をする。まだ数回だけれど、いつもそうだ。

ホストの一二三なら物理的な距離は近くても彼女の心は遠い。素の一二三なら彼女の心は近づいてきても一二三もが近寄ることが出来ない。まるで、反発しあう磁石のようだ。

女が怖い一二三と男に怯える紫陽花。

似ているのに、似ているからこそ近づけない。それに、彼女はヒプノシスマイクを所持出来るほどの人間。


「無謀…か。」


そんなことは知っている。


「……でも、」


頭ではわかっている。


「紫陽花さん…」


でも止められない。


「俺は…」


いつだって助けてくれる、紫陽花が…


「…怖いですか?」
「あ…ごめんね。起こしてしまったかな。」
「声が聞こえた気がして…」
「声…そうか…」
「私、どのくらい…」
「いや、まだそんな。5分か10分くらきかな。もう少し休んでるといいよ。」
「いえ…大丈夫です。帰ります。」


私は私のいるべき場所へ。

一時の夢を見させてくれてありがとうございます。


「素敵なホストさん。」
「……」
「そんな顔しないでください。死ぬわけじゃあるまいし。」
「でも、」


まるで別れの挨拶みたいだ。

そう言えば紫陽花は笑った。