地雨


まだ5月になったばかりだというのに降水確率は90%

予想通り、しとしと降る雨の中で小さな公園のベンチに座りながらお気に入りのコーヒーを飲むのが紫陽花は大好きだった。

もともと雨の日や嵐の日にはワクワクしてしまう。どんよりした空も。雨が降りそうな時の空気も、湿った風も。


「ふぅー…」


ボサボサになろうが、濡れようが関係ない。雨の日は、一番身近な非日常なのだから。

シンジュクディビジョンは一番過ごしやすい。ヨコハマもイケブクロも男達の目が鋭い。その点シブヤはそんなことはなかったけれど、どうにもこうにもむず痒い。シブヤの街を彩る三原色が紫陽花には眩しすぎた。

きっと各ディビジョンの代表の色が出てるのだろう。このシンジュクの代表は有名なお医者様だ。中王区でも一目置かれているような、そんな人格者だと聞いている。そんな人でさえ"男"と言うだけで理不尽なほどの税金を納めているのだから不思議なものだ。

まあ、そんなことは女である紫陽花には全く関係のないことではあるけれど。


「あの!」
「はい?」


トントンと肩を叩かれて、イヤホンを耳から外しながら振り返るとスーツを着たまるでホストのような男が紫陽花に笑いかけた。

見慣れない人種に紫陽花の顔がひきつる。


「よかった、やっと見つけた。」
「えっ…あの…?」
「名前も連絡先も聞いてなかったからどうしようかと思ったよ。」
「い…や…何ですか…私、ホストとか行ったことな…」


いきなりつらつらと話始めるホストに、このままお店につれていかれるのではないかという不安が一気に込み上げてくる。どこかで見たことがあるような気もするけどこんな親しげに話をするような人間ではない。

ずりずりと後退りをする紫陽花を見て彼は少しだけ困ったように笑うと、彼の方から一歩二歩と距離を置いた。どうやら警戒しないでほしいという意思表示らしい。そして紫陽花の持ってる傘を指差すと、お礼が言いたくて、とまたニッコリと笑う。


「傘。」
「は…」
「前に貸してくれたよね?」


その言葉に少し前にこの場所で出会った青年のことを思い出した。あの時は今みたいなきらびやかなスーツを着ていなかったし、こんなににこにこ笑いながら話しかけて来るような雰囲気の人ではなかったのに。

そもそもあれだけ怯えられてしまったから人嫌いなのかと思っていたのに目の前の男はそんな素振りを微塵も見せない。格好からしてホストなのは間違いないだろうから、やっぱり別人なのか。いやでも傘を貸したことなんて本人しか知らないはずであるし、確かに見覚えのある顔だった。色んな考えが紫陽花の頭を一気に駆け巡る。


「あ…あの時の…?」
「ごめんね。声をかけたものの、今日は持ってなくて。」
「別に…返さなくても、」
「そうはいかないよ。連絡先、教えてもらえるかな?」
「……あれは…差し上げますから。それじゃあ、」


このままではまずい。

そう直感した紫陽花は持っていた傘を開いて彼に背を向ける。

ホストに関わったらきっとお金を搾れるだけ搾り取られてしまうんだとビクビクしながら、雨の中に戻ろうとした。

…が、それは彼によって阻まれた。


「待ってくれ!」
「ちょっと大きい声出さないで下さいっ…」
「…また、会えるかな?」
「そんなの知りませんっ。さようなら。」


バッと掴まれた腕を振り切って小走りで雨の道を駅まで戻る。飲んでいたコーヒーはあのベンチに忘れてしまったけれどそんなことはどうでもよかった。

怖い、紫陽花が思っていたのはそれだけだった。